山口県庁の裏、標高338mの鴻ノ峰にあったのが高嶺城(こうのみねじょう)です。
1555年に厳島の戦いで陶晴賢を破った毛利軍は、周防国へ侵攻して玖珂郡を平定します。毛利軍は大内の本拠である山口までの拠点を次々に落としながら侵攻してくる勢いです。
山口の大内館は平地にあって籠城戦には不向きです。大内家の最後の領主となる大内義長は、代わる大内の拠点として、高嶺城の築城を1556年春にはじめます。

しかし、高嶺城の築城は遅々として進まず、毛利軍は山口へと近づいてきました。
大内義長は一旦は未完成の高嶺城に入ったものの、もちこたえられそうにありません。
義長は、翌年(1557年)2月に下関で自刃して果てます。
空き城となった高嶺城の築城は、毛利氏に引き継がれ1557年末に完成します。
中世の城には、3つの要素があり、それは「高さ」「建物」「水」だそうです。
高嶺城は平地から220mの山の頂上にあり、「高さ」は申し分もありません。中世の城は、専ら籠城することが目的です。当時の武器は、弓矢や投石など上から下へと攻撃するものが主流ですから、敵より高い位置にあることが有利です。
高嶺城は徳川幕府の一国一城令で廃城になったので「建物」の全容は不詳です。最高所に本丸があり、尾根伝いに石垣で囲まれた多くの廓があり、堅牢な建物が建っていたようです。
最後は「水」ですが、高嶺城の最後部、本丸に井戸があります。籠城には飲用水の確保は最優先課題です。
高嶺城の堅牢さが発揮されたのが、皮肉なことに大内輝弘の乱です。
ちょっとややこしいのですが、時を遡る1499年に大内政弘の嫡子義興と異母弟の高弘の間で後継争いが起きます。争いに破れた高弘は豊後の大友氏に亡命します。高弘の息子輝弘は豊後で生まれ育ちます。
大内氏を滅ぼして防長二国を手中にした毛利軍は九州へと触手を伸ばします。高嶺城を落として10年後の1567年に、北部九州の有力豪族を懐柔した毛利軍は、ついに九州に侵攻します。毛利元就は下関に陣して北九州遠征軍を指揮していました、
そのとき、北から攻め込まれた豊後の大友宗麟は、毛利軍の背後をつく計画を立てます。
その軍勢を託されるのが大内輝弘です。大内輝弘を立てることで、防長に残る旧大内派(つまり反毛利派)を巻きこむことができます。船で周防に上陸した大内輝弘の軍勢は、旧大内勢力を取り込み規模を増やしながら山口高嶺城を目指します。
このとき、高嶺城の城代市川経好も北九州の陣にあります。高嶺城は留守城で、経好の妻・市川局の他三百名ほどしかおりません。
高嶺城に大内輝弘が率いる総勢五千を超える攻城軍が攻めたてます。しかし、堅固な高嶺城を背景にして、ついに籠城軍は10日の間を持ちこたえます。
ようやく元就率いる毛利軍が反転してきました。大内輝弘の軍勢はこの毛利軍との戦いに敗れて、輝弘は自刃します。
攻城戦には3倍の兵力が必要というのが常識ですが、高嶺城は10倍以上の兵力に少なくとも10日は耐えたわけです。
実際、高嶺城に登ってみると、なるほどこの城を攻めるにはよほど骨を折るだろう、ということが実感できます。高嶺城は続日本100名城にも選定されています。
暖かくなってきたので、難攻不落の高嶺城にハイキングはお奨めです。
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