秋穂は山口藩の外港

旧吉敷郡秋穂町(よしきぐん あいおちょう)は山口市と合併しています。

 

今日は秋穂で濱村杯ロードレースがありました。ハーフマラソンの大会です。薄曇りで風も弱くて、絶好の日和になりました。防府読売マラソンにも出場するようなトップ選手の成績は、強風だった昨年の大会に比べて良くなかったようなので、ちょっと不思議です。

 

秋穂港と三田尻港
秋穂港と三田尻港

浜村杯は秋穂町の名誉町民でもある浜村(濱村)秀雄の名前を冠しています。

浜村は、メルボルン五輪のマラソン代表選手で、ボストンマラソンの優勝者です。

☞ 2018/11/18 道一すじ、浜村秀雄

 

さて、秋穂です。地形図でみると山口市のほぼ真南に位置しており、二つの半島に挟まれた地形をしています。

 

秋穂という秋の実りを連想させる素敵な地名は、地形から合尾(あいお)と呼ばれていたのが転化したという説もあります。いわゆる瑞祥地名というもので、山口県ではたくさんの例があります。

 

さて、防長の港と言えば防府三田尻港が思い浮かびます。しかし、これは主として萩毛利藩の時代になって整備された港のようです。三田尻港と萩城下を結ぶ萩往還は、山陽と山陰を結び、今でも多くの人をひきつけます。

 

時代が遡って、大内時代の山口では秋穂港が外港として栄えていたようです。山口からの距離も最短で、二つの半島に挟まれていることから船泊りとしては格好の場所でした。秋穂街道で山口と結ばれた秋穂港は大内氏の隆盛とともに繁栄していきます。

 

ところが、大内氏は戦国武将です。その大内氏の主要港である秋穂港は、攻撃の対象にもなります。実際に、九州の大友氏は秋穂港を襲い、山口への侵攻ルートを確保して大内の主城である高嶺城に襲い掛かりました。

秋穂港の、東西両側に長く伸びる半島の存在は、外敵の侵入には強力な防御に役立ったと想像されますが、実際はそうでもなかった?のでしょうか。