道義的責任の意味を知らない人をトップに置いている組織が成り立つとは思えない。
兵庫県知事の百条委員会での発言です。委員が道義的責任を感じるかと質問したところ「道義的責任が何かわからないので答えられない」と返しました。道義的責任は道義(人として正しいおこない)を守る責任のことで、委員が言うように知事以外の人はみんなわかっています。組織のトップが、人として正しいおこないが何かわからないなら、とんでもないことが起こることを改めて確認しました。それにしても、兵庫県民の声があまり聞こえません。声をあげない(あげられない)理由があるのでしょうか?
兵庫県知事は、人として正しいおこないと、人として正しくないおこないを、区別することができないと、自ら言われています。
大半の人は、その区別が適当かどうかは別にして、正しいおこないとそうでないおこないを区別する基準を持っています。仮に、明示できなくとも、心の中にはあります。
知事がわからないと言われた道義的責任については、小学校4年生の道徳の授業で学ぶそうです。
日本文教出版では「よわむし太郎」というおはなしを使って教えます。
日本文教出版のWebサイトから引用します。
A ねらいとする道徳的価値
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今、私たちが置かれている社会で主体的に生きていく上では、よいこと悪いこととの区別が的確にできるようにすることは重要である。また、自分が正しいと思うことを自らの力で判断し行動に移すことは、人としてもとても大切なことである。
しかし、そのような中でも、人は周りの状況やその時の自分の思いによって正しいと思うことを行動に移すことができなかったり、見失ったりすることもある。そのようなときほど、人に左右されることなく、自らの判断を信じ、それを行動に移す強い意思が必要である。
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「よわむし太郎」を添付します。 小学4年生向けの短いおはなしです。
このおはなしの結末が、次のように変わっていたら・・。
「おまえは、わしが誰かわかっているのか。わしはとの様だぞ。」
との様は、ふたたび弓を上げて、太郎の胸にめがけて矢をはなちました。
太郎が、どうとたおれたのをみたとの様は、馬にまたがると、しろに向かって帰っていきました。
どうなることかと心配していた子どもたちにも、太郎がもうしんでいることがわかりました。子どもたちは、太郎に近づくこともなく、それぞれの家に帰っていきました。
池にはあの白い大きな鳥たちが、何事もなかったように、ゆうゆうと泳いでいました。
それから後は、「よわむし太郎」という名前は、この村から消えてしましました。