山椒は小粒でもぴりりと辛い。当代の三笑亭可楽は九代目

落語の祖というのは定義によっていろいろですが、最初の職業落語家は三笑亭可楽(初期は山笑亭花樂)ということになっているようです。

 

三笑亭可楽は京屋又五郎というのが本名です。落語は江戸より大阪で先行しておこなわれていたようで、寛政年間に岡本万作という方が江戸に下って寄席興行を打ちます(1791年)。

これに触発されて、江戸日本橋で櫛細工の職人をしていた又五郎が、自分にもできそうだと落語家になって寄席興行を催す(1798年)ようになったそうです。

 

江戸時代の寄席 高座
江戸時代の寄席 高座

この当時、18世紀の後半の状況を確認してみます。

1780年代は、江戸が近世最大の異常気象に見舞われ、浅間山が噴火(1783年)して、天明の大飢饉(1782~1786年)となり、一揆や打ちこわしが頻発します。

この結果、田沼意次が失脚(1786年)して、新たに老中となった松平定信が寛政の改革(1789~1793年)をはじめます。

 

寛政の改革は徹底した質素倹約を旨としました。囲米の制で大名の無駄遣いを規制して米の備蓄を増やし、異学の禁で朱子学以外の学問を禁止して身分制度を強固にすることで治安の維持を図ろうとしました。結果として、「白河の 清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋ひしき」となり、過度な締め付け政策は失敗に終わります。

 

失敗に終わったとはいえ、寛政の改革からの諸規制は続いていた時期に落語・寄席がはじまります。落語の時そばになるように屋台のそばが16文に対して、当時の寄席の木戸銭は12文くらいで、今の値段なら300円くらいです。息苦しい統制社会のなかで、ホッとする息抜きだったようです。 

 

もっとも、可楽の落語は今のものとはかなり趣が異なり、小噺のようなものだったそうです。しっかりしたストーリーはまだなく、サゲも駄洒落のようなものでした。また、世相を取り上げたり、お殿様やらお武家を揶揄するような話もするのははばかられました。

 

寛政の改革から10年を経て、江戸に享楽的ともいえる華やかな町人文化が花開きます。文化元年(1804年)にはじます化政文化の時代です。 庶民の娯楽としての落語が隆盛を迎え、文政末期には江戸に125軒の寄席があったそうです。

こんな背景から、可楽には可楽十哲といわれる多くの弟子があり、今につながる名跡では、林家正蔵、立川談志、入船亭扇橋などがおります。