開国の恩人。横浜港掃部山公園の井伊直弼

徳川幕府の大老・井伊直弼は安政5年(1858年)に日米修好通商条約を結びました。

 

井伊直弼の業績は、攘夷派の反対を押し切って日本を開国に導いたことです。横浜市の掃部山公園には井伊直弼の銅像が立っています。

横浜市のWebサイトによると、掃部山は元は不動山と呼ばれていたのを、横浜の開港に貢献した大老、井伊直弼公にちなみ名前を変えたそうです。井伊直弼は彦根藩の藩主で、井伊家の当主は代々、「掃部頭(かもんのかみ)」と呼ばれていたからです。四季折々、落ち着きと安らぎを与えてくれる公園で、敷地内には子供たちがたくさん集まる遊具広場や関東に現存する最古の能舞台を持つ、横浜能楽堂もあります。

 

横浜港掃部山公園の井伊直弼像
横浜港掃部山公園の井伊直弼像

そんな井伊直弼ですが、ここ山口県では人気がありません。

 

井伊直弼は、開国に反対する尊王攘夷派を弾圧しました。安政の大獄です。安政の大獄では、山口県で今でも最も尊敬されている吉田松陰先生が斬罪となりました。そんな極悪人である井伊直弼の人気が、山口県では高くなるはずはありません。

尚、松陰先生が江戸伝馬町牢屋敷で死刑となったのは安政6年10月27日のことです。

 

そして、その翌年の安政7年3月3日に江戸城桜田門外で井伊直弼は水戸浪士などによって暗殺されます。桜田門外の変です。

徳川幕府最高位の大老が、最下級の浪士に殺害されたわけです。徳川幕府は桜田門外の変を境にして急速に力を失い、時代は一気に幕末へと向かいます。

 

井伊直弼の業績をどう評価するのかはよくわかりませんが、横浜港に立つ姿にあるように、日本開国の恩人であることは間違いないでしょう。日本が国を開いて、欧米の進んだ文明を取り入れるべきである。排外主義は捨て去らなければいけないという意思を、江戸後期を代表する茶人でもあった直弼が、どうやって固めていったのかは興味深いところです。