日本の女子高等教育の黎明。津田梅子と新渡戸稲造

昨日に続いて、新五千円紙幣の肖像になった津田梅子についてです。

 

今の五千円紙幣は樋口一葉です。一葉は「たけくらべ」をはじめとする優れた小説を書き残していますが、1872年に生まれて1896年で亡くなっています。24歳の短い一生でした。

津田梅子は1864年に生まれて、6歳でアメリカに留学して1882年に帰国し、その後1889年から1892年にかけて2度目の留学をしています。2度目の帰国が一葉の小説執筆時期に当たりますが、華族学校や明治学院の講師を務めていた梅子が一葉の作品に触れていたかはわかりません。

 

津田梅子
津田梅子

津田梅子との関係では、樋口一葉のもうひとつ前の五千円札の人、新渡戸稲造が深いようです。

年表式に書いてみます。

 

1862年(文久2年) 稲造生まれる

1864年(元治1年) 梅子生まれる

1872年(明治4年) 梅子渡米(岩倉使節団)

1877年(明治10年)稲造札幌農学校入学

1882年(明治15年)梅子帰国

1884年(明治17年)稲造渡米・その後渡独

1889年(明治22年)梅子再渡米

1891年(明治24年)稲造札幌農学校教授

1892年(明治25年)梅子華族女学校教師

1900年(明治33年)梅子「女子英学塾(現津田塾大学)」開塾

1918年(大正7年) 稲造「東京女子大学」初代学長就任

1920年(大正9年) 稲造国際連盟事務局次長就任

1929年(昭和4年) 梅子没(64歳)

1933年(昭和8年) 稲造没(71歳)

 

 ほぼ同時代を生きた新渡戸稲造と津田梅子は、ともに教育、とりわけ女子高等教育に力を注ぎました。これは、二人がともにキリスト教信仰に基づく男女平等を信奉していたことによります。また、一方で欧米思想を無条件に受け入れるのではなく、日本女性のよい特徴を残し育むことにも力を入れました。

 

稲造と梅子の関係の深さはよくわかりませんが、新渡戸稲造は女子英学塾で何度も課外講義を担当していたそうですから、女子教育について考えを交わしていたのだろうと思います。