新紙幣が発行されてから1週間が経過しました。残念ながら、まだ御見掛けしておりません。
ニュースで新紙幣発行は随分と話題になっていましたが、早くも今ではほとんど聞かなくなっています。新紙幣が発行されると話題になるのが肖像画です。新一万円券は、表が渋沢栄一、裏が東京駅丸の内駅舎を図案にしています。新五千円札は、表が津田梅子、裏は藤の花。新一千円は表が北里柴三郎、裏は富岳三十六景・神奈川沖浪裏です。
一万円札の渋沢栄一については、様々なメディアで多様な視点から解説されていて、面白いですね。一人の人物なんですが、見方によっていろいろに分れるのは、三次元ホログラムにピッタリです。
渋沢栄一を紹介するときしばしば渋沢自身の著作「論語と算盤」が登場します。渋沢は「論語と算盤を遠く見えるが近いもの」と語ります。論語すなはち倫理や道徳と、算盤すなはち金儲けという、正反対のものが実は同じといえるほどに近いものと主張しています。
渋沢栄一は1840年(天保11年)に現在の埼玉県深谷市で養蚕と藍玉製造を家業とする農家に生まれました。幼少の頃から、従兄の尾高惇忠に論語や四書五経を学びます。尾高の強烈な尊王攘夷思想の影響を受けて、横浜外国人商館の焼き討ちなど倒幕計画に参加して失敗します。
その後、ひょんなことから一橋家に仕官することになり、農民兵の募集に手腕を発揮します。一橋慶喜が将軍になったことで、倒幕を企てていたはずの栄一は幕臣となります。そして、慶喜の弟・昭武に随行して欧州視察に出掛けます。このときに見聞した、欧州の進んだ社会制度や産業技術への驚きが、その後の渋沢の活動のベースです。
欧州滞在中に大政奉還があり明治新政府ができます。帰国を命じられた栄一は、新政府の役人として働きます。栄一は1873年(明治6年)に第一国立銀行の総監役となり、これを拠点に企業の創設・育成に力を入れます。生涯に約500の企業に関わったことはよく知られます。
経歴をみれば、論語と算盤ではなく、論語から算盤のようにも思えます。しかし、新しい国、強くて豊かな国をつくるには、金儲けが必要です。そして、儲けた金は正しく使われ、さらに大きな金額になって戻ってこなければなりません。日本の資本主義の土台をつくった渋沢栄一は、当時としてはとても稀な柔軟な考え方で、論語と算盤の折り合いをつけたわけです。