ちょっと時間があったので出張のついでに関ケ原の古戦場を訪問しました。初めてです。
関ケ原は「晴れていても雨が降る」と聞いていたのですが、まさにその通りです。青空は見えているのですが、ときおり撒くように雨が降ります。さらに、風向きを変えながら強い風が吹いてきて、かなり肌寒いです。たまたま、ネックウォーマーを持っていたのが幸いです。
関ケ原には、北西に伊吹山脈があり、四方を山に囲まれた盆地です。木曽川の上流部に当たる相川がつくった古い時代の扇状地でもあります。
関ケ原盆地の特徴は、東西南北の四方がそれぞれ開いた形になっていることだそうです。この特異な地形が、独特の気象をつくります。
東西は中山道が通っていて、南北は伊勢街道から北國街道へとつながります。まさに、交通の要衝です。
訪問しての感想は、意外に狭いということです。東西4㎞×南北2㎞ということですから約8㎢です。
関ヶ原の合戦では、ここに西軍10万+東軍7万の大軍が対峙して戦ったということです。全員が盆地に降りて戦ったわけではないです、本当なら大混雑(立錐の余地も無い?)して戦うどころではなかったように思います。
関ケ原の戦いの様子は、勝者となった徳川方の資料から後世に伝えられたものです。
現代に生きる私たちは、徳川幕府の200年を超える平和と安定を知っているので、その結果から遡って、この決戦を見がちです。
関ケ原の戦いでは、松尾山に陣を構えた臆病者の小早川秀秋が戦いに参加せずにじっとしていた。これに怒った家康が、大砲による恫喝をしたら、秀秋は怯え切った末に、卑怯にも西軍を裏切り、大谷吉継を背後から襲った。これを契機にして、西軍は崩壊したとされています。
しかし、小早川秀秋が松尾山にいたという明確な資料はないそうです。すべては徳川方が後になって作成した資料に書かれているのだそうです。
また、そもそも大谷吉継も関ケ原にはおらず、大垣城にそのまま籠城を続けていたという説もあります。
実際のところ、地理的な関係からは、大谷吉継が家康の大軍が進出していた関ケ原を突っ切って、笹尾山に陣を構えたというのは考え難いです。
戦争の歴史は、勝者の物語ですから、真相を知るのはなかなか難しいのかも知れません。