【昨日の続き】白村江の戦いに敗れた倭国水軍は九州に逃げ帰ります(663年8月)。
このとき倭国軍は多くの百済人を難民として連れて帰りました。白村江で倭国軍を破った唐の水軍が九州に侵攻してくると予想されるので、大慌てで対馬、壱岐、筑紫に防人を配置して通信手段として狼煙を建設します。大宰府防衛のための城や水城を整備し、讃岐や大和に築城して、667年には都も飛鳥から近江大津宮に遷します。遷都しなければならないほど、唐が攻めてくるのを恐れていたのです。
朝鮮半島で唐の猛攻に対して、高句麗が 意外なこに5年間も耐えました。このために、唐と新羅は高句麗との長期間に戦いに倦んで、倭国への侵攻を思いとどまります。
しかし、倭国はそんなことを知りませんから、必死に国の守りを固めます。このときに強化された倭国の防衛力と危機感から高揚した国民の防衛意識が、その後の倭国の平安につながり、時代を下って「刀伊の入寇」や「元寇」のときに倭国の危機を救うことにもなりました。
国内の体制も強化しなければ、唐に敗れて支配されかねません。日本で初めての全国的な戸籍「庚午年籍」がつくられ公地公民制の土台ができます。行政機構も整備されて、中央集権国家の体裁が整っていきます。ついには、日本最古の法律体系である近江令が施行されて日本の律令制度が完成します。
また、母国の滅亡によって、倭国に亡命してきた百済人には、当時の先端技術者・技能者が多くいました。
彼らの技術や技能が倭国において発揮されました。
この時代の文化を白鳳文化といいますが、それまでの飛鳥文化と違って大陸文化の華やかな色合いを強くもっっています。薬師寺の薬師三尊像、法隆寺の阿弥陀三尊像、高松塚古墳の壁画など多彩です。
この頃は和歌も隆盛期を迎えます。百人一種の冒頭を飾るのは、天智天皇です。
白村江の戦いをおこなうことを決めたのは斉明天皇の時代ですが、実態は息子の中大兄皇子が決断したものです。斉明天皇は白村江の戦いの前に崩御します(661年)。
この後を中大兄皇子が継ぐのですが、7年間も天皇位につかず皇太子のまま称制します。天智天皇として即位するのは668年。天智天皇は672年に亡くなるので、皇太子時代を含めて12年間の統治でした。