NHKオンライン「ロシア軍 クリミアから艦船を移動か 後退との見方も」です。
ロシアの黒海艦隊が、クリミアのセバストポリからフリゲート艦や潜水艦など少なくとも10隻の艦船を、ロシア南部のノボロシースクに移したということです。ウクライナ側の一連の攻撃を受けて退避したようで、ウォール・ストリート・ジャーナルは「2014年にクリミアを占領したプーチン大統領にとって驚くべき後退だ」と伝えています。
ロシア海軍には4つの艦隊、北方艦隊、太平洋艦隊、バルト海艦隊、黒海艦隊があります。日本に対面しているのは、ウラジオストックに艦隊基地がある太平洋艦隊ですが、黒海艦隊が日本の歴史に大きな影響を与えたことがあります。
日露戦争の1905年当時、ロシア太平洋艦隊は旅順に基地がありましたが、乃木希典が率いる日本陸軍の決死の行動で、ほとんどの艦艇が使用できなくなります。
そこで、バルト海艦隊(バルチック艦隊)を日本海に派遣することになるのですが、このとき黒海艦隊も一緒に来る計画だったのです。
最終的に、東郷平八郎が率いた日本海軍は、日本海海戦でバルチック艦隊を相手に勝利するのですが、このとき黒海艦隊が同行していたら勝敗に影響したかも知れません。
何故、黒海艦隊が出動できなかったかというと、トルコが最後までボスポラス海峡・ダータネルス海峡の軍艦艇の通過を認めなかったことも要因の一つです。
このとき、トルコと日本には国交がありませんでした。しかし、南下政策をとるロシアと何度も戦争していたトルコにとって、ロシアが極東に向けて進軍することは国益に叶います。大国ロシアという同じ敵と戦う日本にシンパシーを感じてもいました。
この背景にあるのが、有名な「エルトゥールル号の遭難事件」です。
明治天皇は、ロシアの脅威という共通課題を持つトルコ皇帝アブドゥルハミト2世に親近感を持っていました。そこで、1887年に小松宮親王殿下をトルコに派遣して菊花大綬章を贈ります。その答礼として、トルコ海軍のオスマン少将を責任者として1890年に使節団を派遣します。その使節団座乗艦がフリゲート艦エルトゥールル号です。
このエルトゥールル号が帰途に紀州沖で台風によって遭難します。650人の乗組員のうち生存者69人という大惨事でしたが、地元・串本の人たちの懸命な救助と遭難者への慰霊は、トルコ皇帝並びにトルコ国民の親日感情を高めました。