吉田松陰先生の松下村塾は、明治維新に多くの英傑を送り出しました。
吉田松陰が松下村塾で教えた期間はごく短かく、塾生の数も限られます。一時期の在籍者を含めても90名余りですが、奇兵隊の高杉晋作、久坂玄瑞、初代内閣総理大臣の伊藤博文、陸軍を建設した山県有朋、維新三傑の木戸孝允、法治国家を目指した山田顕義、明治外交の品川弥二郎など、著名な塾生が多数おります。
山口県の主要県道32号線(萩秋芳線)にある道の駅・萩往還に、松下村塾ゆかりの英雄たち10名の銅像があります。
吉田松陰、高杉晋作、日下玄瑞の3人。山県有朋、木戸孝允、伊藤博文。品川弥二郎と山田顕義。そして、写真の天野清三郎と野村和作です。
このなかでは、天野清三郎が最も知名度が低いように思います。清三郎は天保14年(1843年)に萩藩士渡辺茂助の三男として生まれました。そのときの名前は渡辺蒿蔵(こうぞう)です。幼い頃に天野家に養子に入り、天野清三郎と名前が変わりました。
清三郎は松下村塾に学び、志士として活動した後、幕末の慶応3年(1867年)に、長州藩から米英に留学生として派遣されて造船技術を学びました。ロンドン大学などでの7年余りの勉強を終えて、明治6年(1873年)に帰国した清三郎は、長崎造船局の初代局長として、当時東洋一の立神ドックを建設するなど、日本の近代造船の礎を築きました。
清三郎は後年「松蔭先生が、今後の日本は造船、造艦の術を起こして、航海遠略の基を立てねばならぬ」と言われたことが、海事を志向した理由だといっています。長州藩では、清三郎だけではなく、多数の若者が造船、造艦、海洋兵学、航海、測量、海路形勢などの海事技術を学ぶために欧米に留学しています。
清三郎は49歳で海事との縁を切って、萩に帰郷します。このとき、渡辺家に復籍して、渡辺蒿蔵に戻ります。萩に戻った蒿蔵は、松下村塾の保存や吉田松陰の関連資料や功績をまとめることに力を注ぎます。有名な長州ファイブの写真は蒿蔵が保管していたものですが、現存する幕末維新の資料の多くに関わっています。
蒿蔵は昭和14年(1939年)に97歳で亡くなります。吉田松陰に直接の教えを受けたものでは最も長命であったばかりか、昭和まで生きたのも清三郎=蒿蔵、ただ一人でした。