企業のwebサイトにはその沿革が書かれたものは多いのですが、三井グループ(三井財閥)の「三井広報委員会」はなかでも充実しています。
三井財閥の起源は伊勢松阪出身の三井八郎兵衛高利が、延宝元年(1673年)に江戸本町1丁目に間口9尺の「越後屋八郎右衛門」という呉服店を、同時に京都に呉服の仕入店を開業したのが始まりということです。三井グループは、その後も持続可能性を最大限に維持しながら、350年の歴史を続けてきたわけです。
後発で小さな越後屋が、老舗大店を相手にして繁盛したのが画期的な商法の採用です。「店前売り」「現銀掛け値なし」「切り売り」「仕立て売り」といった当時の常識からかけ離れたやり方で、ぐんぐん人気を高めていきました。
元禄7年(1694年)家祖である三井高利が73歳で亡くなります。三井家の事業を存続させる事業承継をどうするのかという課題が生じました。高利には10男5女がおり、京の店を長男・高平、江戸の店を次男・高富が管理するなど、それぞれ事業に関わっていました。
この対策として長男・三井高平が考案したのが「大元方」の設置です。現代のホールディングカンパニーにあたる、三井家の本部組織です。大元方は、兄弟たちを6本家・3連家の9社の共同出資という形態です。これを末代まで維持する仕組みを「宗竺遺書」という家憲として制定しました。
大元方の財産は6本家・3連家に限定されて流出することは禁じられました。それぞれの家は調子相続を原則とする単独相続で分割は禁止されました。各家の持ち分に相当する財産を処分することも禁じられました。つまり、各家の所有権は大元方に集中している家産の持分権という形でのみ存在するわけです。尚、持ち分比率は総領家が30%弱、残る5本家が各10%強、3連家が各10%弱でした。
この大元方の仕組みで家業の源になる資産(家産)を、事業組織である家と切り離したことで、事業の永続性を担保したわけです。各家の利益は大元方に集められ、分配され、再投資される仕組みです。各家は主人の下に元締・手代など優秀なマネージャーを配置して繁盛に努めていきました。
三井広報委員会webサイトから「宋竺遺書」の主なものの現代語訳。