三原駅の新幹線ホームは三原城の天守台の上にありますから、距離ゼロメートルです。
コロナ禍が終息して、お城ブームは再燃です。戦後の復興期に天守閣の再建が相次いだ時期が第一次お城ブームです。2006年に「日本100名城」、2017年に「続日本100名城」(日本城郭協会)が認定されて以降、お城ツーリズムの活況を迎えたのが第二次お城ブームです。コロナ禍で停滞を余儀なくされましたが、地域の活性化にお城というコンテンツは魅力的なので、第三次お城ブームに期待したいです。
三原城は、永禄10年(1567年)に毛利元就の三男、名将小早川隆景によって築城が開始されました。その後も毛利氏によって、戦国時代を通して何度も大規模な改修が行われました。☞ 三原城址:三原市webサイト
三原城の特徴は、海に開けた海城(浮城といいます)だということです。毛利水軍(小早川水軍)の本拠基地としての役割を果たしました。
通常、お城は軍事防衛の拠点なので街道より山側にあるものですが、三原城は海に浮かんでいるので街道を背にしています。さらに、天守台は堅牢で急峻な石垣で防衛するもののですが、三原城の石垣の傾斜は緩やかで容易に登れそうです。
江戸時代になって、一国一城令が発布されて戦国時代には2万以上あった城郭は、およそ170に減りました。備後国では神辺城(村尾城)を残して、三原城を含む残りの城は廃城とされました。
廃城となった三原城ですが、水軍基地という特殊事情があります。同時に廃城となった鞆城の建物を移築するなど、施設を充実させています。城とは名乗れないので、三原要害と呼ばれていました。
幕府が倒れて明治になると、全国にある城郭の存廃を決めることになります。先ず、江戸城は東京城と名を改めて皇居となります。
その他の城郭で残すと決めたもののほとんどは陸軍省の管轄になります。大阪城には陸軍所が置かれます。中国地方は広島城に第五軍管広島鎮台が置かれ、第十一篩管(松江・浜田・山口)と第十二篩管(丸亀・徳島・須崎浦・宇和島)を統括しました。
三原城は特殊な例で、陸軍省ではなく海軍省の管轄となりました。一時期、西海鎮守府として旧三原城を使う構想があったのです。しかし、水軍の城を近代海軍の拠点とするのは無理だったので、明治19年に呉に軍港を築いて鎮守府とすることに決まりました。
無用となった三原城は、明治24年に山陽鉄道に払い下げられ、城内を鉄道が通るということになりました。そして昭和50年の山陽新幹線の開業に伴って、天守台の上に新幹線ホームがあるという構造になったのです。