久原房之助は、久原鉱業(現 JX日鉱日石金属株式会社)を創業し、茨城県の日立鉱山を世界屈指の銅山に育て上げました。昭和になると政治家として活躍し、同じ山口県出身の田中義一首相の下で逓信大臣を務めるなどしました。岸田首相が来日した米国バイデン大統領をもてなした白金の八芳園は、もともと房之助の自邸でした。
萩に行って古い神社に参拝すると、あちこちに「久原房之助」の名前を見かけます。どこでも高額な寄進をしているからです。
実業家から政治家に転身して、政界の黒幕と呼ばれるなど、とかく毀誉褒貶を集める人物ですが、社会人となったばかりの若い頃に注目してみましょう。
明治2年に生まれた房之助は、とても優秀だったようで17歳で早くも東京商業学校(一橋大学)を卒業します。さらに福沢諭吉に学ぶため慶応義塾に入塾し22歳で卒業します。
卒業後、貿易商の森村組(今のノリタケカンパニー)に入社した房之助は、翌年(明治24年)にはニューヨーク支店勤務を命じられます。
ところが、房之助の出航2日前に、山口県出身の元老ひとり井上馨が渡米を阻止します。そして、藤田組(今のDOWAホールディングス)が経営する秋田県の小坂鉱山に行くように指示します。
小坂鉱山は幕末の文久年間に南部藩によって開発が始まっていたのですが、戊辰戦争によって放棄されていました。明治新政府は小坂鉱山を接収して官営として、技師長の大島高任を岩倉使節団とドイツに派遣し、さらに鉱山技師ネットーをドイツから招聘して最新の精錬技術を導入します。小坂鉱山は明治14年には佐渡金銀山を抜いて日本第一の銀山となっていました。
この頃、日本政府は西南戦争の戦費調達のための紙幣乱発から、インフレが起きて財政破綻の危機に陥ります。そこで、明治政府は明治17年に小坂鉱山を藤田組に払い下げたのです。
小坂鉱山の経営を担った藤田組でしたが、鉱山の埋蔵量が減少して鉱石の品位が低下してきたために、明治24年当時は既に経営危機に陥っていました。
資金ひっ迫した小坂鉱山は、井上馨を介して毛利公爵家から多額の融資を受けました。そのため、小坂鉱山の経営再建は、井上馨にとっても喫緊の課題でした。当時の井上は、元勲として伊藤博文・山県有朋・黒田清隆・松方正義らとともに政府や天皇の意思決定に強く関与していました。
23歳で秋田県の小坂鉱山に赴任した房之助の心の内はよくわかりません。ニューヨークにいくはずが、突然に秋田と青森県との県境の鉱山へと連れていかれたわけです。
しかし、房之助は、鉱員たちと起居を共にしながら、泥と汗にまみれて現場で働きます。採鉱から精錬とあらやる作業を体験した房之助は明治30年(29歳のとき)には事務所長心得となり実質的な小坂鉱山の運営トップになりました。
しかし、その頃には埋蔵量枯渇は目前となり、毛利家は藤田組に、つまりは房之助に、小坂鉱山の閉山を迫ります。
ここで、房之助は起死回生の手段として、これまでの小坂鉱山より地下深くにある新たな鉱床の開発を計画します。新たな鉱床は精錬が困難な複雑鉱で、当時の技術ではどうにもならないとされていました。
房之助は山口県出身で東京帝大を出て島根大森鉱山にいた武田恭作を招聘し、武田に内部から抜擢した米沢万陸や青山隆太郎など優秀な職員を協力させて、自熔精錬という革新的な技術を開発することに成功します。明治33年(房之助32歳)のことです。
井上薫を説得して、毛利家からの融資を繋いだことで、閉山を先延ばししていた小坂鉱山は、この画期的な新技術で復活します。房之助は新技術による精錬所の大拡張に着手し、その7年後には当時世界一の大溶鉱炉を建設します。小坂鉱山は、明治40年には日本の産銅量の2割を占める東洋一の大鉱山となり、大正初期にかけて最盛期を迎えます。
房之助は明治36年(35歳)に藤田組を退社して独立します。明治38年に茨城県の赤沢銅山を買収して日立銅山と改称して経営にあたり、明治43年に日立製作所を設立、大正元年に現在のJX日鉱日石金属株式会社となる久原鉱業所を設立、その後も事業を拡大して久原財閥を形成していきますが、このお話はここまでです。
小坂鉱山に戻って、久原房之助のユニークなところは「一家一山」という思想です。
房之助は東北の寒村である小坂を、人工的な鉱山都市として開発していきます。住宅・上水道・電気、学校・病院・劇場、道路・鉄道・駅、公園・商店街などを整備して、山奥僻地に東北屈指の大都市ができあがりました。
簡単に書いていますが、大都市でも水道普及率5%の時代に、私企業の力だけで人口2万人を超える町の全戸に水道を施設し、電気を通し、幼稚園から小中高までの学校や秋田県で唯一の総合病院を設置し、鉄道まで敷いたのです。
宮殿のような小坂鉱山事務所、現在も常打芝居公演が行われている劇場康楽館などが重要文化財に指定されており、観光客にも人気です。
山口県からは今の時代でも実に遠いですが、一度は行ってみたいと思います。