さらに、一昨日・昨日の続きです。山県有朋はナゼ高杉晋作を英雄に祭り上げたのか?
高杉晋作が創設した奇兵隊という組織の意味です。江戸時代は士農工商という身分制度がありました。士族(武士)という身分があって、威張っていたわけですが、士族は今風に言えば常備軍の職業軍人です。戦いは士族が兵となっておこなうもので、農工商民は武器を持つことが禁じられており、戦いそのものに関与することはありません。
奇兵隊の「奇兵」は正規の兵ではないという意味です。つまり、士族ではない兵という意味になります。
江戸時代の260年間、戦うのは士族だけという時代が続きました。そのなかで、攘夷に続き明治維新となり、世の中で混乱が激しさを増すことを踏まえて、高杉晋作は異なる身分からも兵を集めるということを発案したわけです。
以前調べたことがあります。
2015/05/16 萩・花燃ゆ大河ドラマ館は、旧萩藩校・明倫館の跡にあります
幕末当時の萩藩の人口構成はざっと以下です。
家中 4万人・・諸士 1万人 + 足軽中間 1万人 + 家来 2万人
寺社方 1万人・・僧侶 5千人 + 俗人 5千人
町方 2万人・・商人 1万人 + 職人 1万人
農民 40万人・・百姓 25万人 + 小作 15万人
家中 4万人のうち男性は2万人で、働ける期間25年/寿命50年として就労者は1万人です。
このうち、半分の5,000人が今でいう公務員(事務・技官)で、残り5,000人が治安維持(自衛隊・警察・消防・海上保安庁)をしていました。
晋作は幕府が崩壊して新時代を迎えるに当たっては、内戦が起こることは必至と考えていました。例えば、萩藩の通常戦力5000人では。戦力不足だと判断したわけです。そこで、士族以外の階級からも兵を募って、奇兵隊やその他の諸隊をつくることにしたわけです。
奇兵隊は当初数十人で発足しましたが、順次合流する農民や町民の人数が増えて、最終的には諸支隊を含めると正規兵と同じ約5000人にまでなったようです。しかも、裕福な商人が後ろ盾になって、外国から最新の銃砲を調達したものですから、未だに槍や刀に頼っていた正規軍よりむしろ強かったということもあるようです。
高杉晋作が罷免された後に、奇兵隊の軍監として実質率いた山県有朋が、後の明治日本に徴兵制を採用するわけです。山県が晋作を英雄と称えたのは、当に奇兵隊つまり国民軍の創設者だったからでしょう。ちなみに、高杉晋作の菩提を弔う東行庵は、山県有朋が別邸・無鄰菴を提供したものです。
但し、徴兵すると集めた兵に武器を与え訓練して、衣食住を提供しなければなりません。山県にとっては国民皆兵が目標でしたが、貧しかった明治日本では徴兵されたのは全体の3~5%くらいで、日露戦争のときでも1割に満たなかったようです。