東行楓は赤い。高杉晋作 英雄譚の秘密

下関市の東行庵は山口県で有名な紅葉の名所です。樹齢300年の東行楓が見頃です。

 

東行庵の「東行」は高杉晋作の号です。東行庵は晋作の霊位礼拝堂として明治17年(1884)に創建されました。東行庵のある下関市吉田は、晋作が創設した奇兵隊の本陣があった場所です。晋作は遺言で、亡くなったら清水山に埋葬して欲しいと言い残していました。

 

東行楓
東行楓

高杉晋作は天保10年(1839年)に萩藩士の家に生まれ、明治維新の前年に当たる慶應3年(1867年)に肺病のため下関で亡くなっています。まだ満27歳でした。

 

晋作は18歳のとき吉田松陰の松下村塾に入り、知識が豊富で極めて優秀であると評判になります。翌年には藩命で江戸に1年ほど遊学した後、萩に戻って結婚します。さらに翌年、晋作は中国上海に幕府使節随行員として2か月余り赴きます。

 

上海で清が列強に蹂躙されるのをみて攘夷を決意した晋作は、帰国すると建設中の英国公使館焼き討ち事件を起こします。翌年に下関で攘夷戦争がはじまると、奇兵隊をつくって総監に就任しますが、僅か3ヵ月で罷免されます。

さらに脱藩を試みて捕まり、野山獄に3ヵ月ほど収監されます。獄を出た晋作は、長州内乱に兵を集めて決起します。いくつかの戦果を挙げることに成功しましたが、同僚の藩士から支持を得られず、愛妾おうのと四国に逃亡します。

帰藩を許された晋作は幕長戦争に参陣して活躍しますが、3か月ほどで病気休養となり、1年近くの療養の後に亡くなります。この療養期間に、多くの書や歌を残しました。享年29歳(満では27歳8か月)でした。

 

すごく端折って晋作の生涯を俯瞰してみると、27年間で高杉晋作が残した業績がどれほどのものだったかは判然としません。実際の活躍はそれぞれ単発で期間も短いですし、良い妻がいながら妾と逃げるとか、ちょっとふしだらです。

 

高杉晋作の英雄譚は、どうも後世になってつくられた部分があるようです。この裏に隠れているのは山県有朋と伊藤博文の二人らしいです。明治維新の主役二人が結託して、晋作伝説として少し盛ったようです。

 

山県は晋作の2歳年長で、伊藤は1歳年少です。ともに松下村塾に学んだのですが、藩士の家の高杉は藩校明倫館を出てから松下村塾で学び、英才と評されました。最下級武士の山県や、元は農民の伊藤は藩校には入れないので、いきなり松下村塾です。当時は、山県も伊藤も晋作の後塵を拝して、頭が上がらなかったようです。

山県は晋作が罷免された後の奇兵隊を軍監として実質的に率います。伊藤は奇兵隊の支隊である力士隊を率いて山県とともに戦っています。外形的には、高杉晋作を支えた両翼が山県と伊藤です。

 

明治日本新政府を牽引指導する山県と伊藤には、いろいろな不満が寄せられて批判されることが多かったのは想像に難くありません。そこで、エピソードが多く、劇的な人生を駆け抜けながらも若くして亡くなった、同郷同志の高杉晋作を「正義の英雄」としたようです。正義の英雄・高杉晋作を支え、明治の扉を開いた山県と伊藤というストーリーです。

 

【以上、事実かどうかは問わないでください】