ちょっと昨日の続きです。山県有朋と森鴎外には深くて複雑な関係があったそうです。
山県有朋は1838年(天保9年)に萩城下に最下級武士の長男として生まれています。森鴎外は1862年(文久2年)に津和野藩の典医の嫡男として生まれています。干支で2廻り24年の時を経ていますが、生まれた場所は40㎞くらいしか離れていません。
ずっと飛んで、山県有朋と森鴎外は大正11年に相次いで亡くなっています。関東大震災の前年のことで、山県は享年83歳、鴎外は享年60歳でした。
森鴎外は年齢を2歳偽って今の東大医学部に入ります。明治14年に卒業したときはまだ満18歳でした。鴎外がとても優秀だったとはいえ、明治への過渡期の混乱がよくわかります。
卒業後に陸軍の軍医に任官した鴎外は、明治17年に衛生学を学ぶためにドイツに留学します。4年間滞在して、大いに成果を上げたうえで明治21年9月に帰国します。
山県有朋は黒田清隆内閣の内務大臣として、明治21年12月に横浜港を出て欧州を歴訪します。このとき日本では、列強との不平等条約改正問題で政治混乱が激しさを増します。翌、明治22年10月に日本に戻った山県は黒田総理の辞職を受けて12月24日に第3代内閣総理大臣に就任します。
この直後、明治22年1月3日発行の雑誌「国民之友」で連載がはじまったのが、鴎外の処女作『舞姫』です。
舞姫の主人公、太田豊太郎が鴎外、欧州視察に来た大臣天方(アマガタ)伯爵が山県有朋をモデルにしているとされています。これは、ちくま書房のwebサイトに鈴原一生先生の詳しい解説があるので、是非ご覧ください。
☞ ちくまの教科書 > 国語通信 > 連載> 舞姫先生は語る
ドイツから戻った鴎外は、政治的な野心があって山県に接近しようとします。ついに、明治22年の年末に鴎外は山県と面会するのですが、どうも初対面では山県は鴎外を気に入らなかったようです。山県の保守的というか慎重な性格が邪魔をしたともいわれますが、鴎外は大いに失望しました。
その後、山県と鴎外の関係は修復されます。元老として明治の政界に力を持っていた山県と、陸軍軍医監(陸軍中将)として陸軍省の上層人事にも介入した鴎外との深い関係は、今に至るも完全には明らかではないようです。
舞姫先生では、『鴎外は山県の意向を受けて賀古鶴所とともに和歌の会「常盤会」を起こします。さらに「観潮楼歌会」等を通じて山県のブレーンとなり、持ちつ持たれつの関係になります。(鴎外は)例えば自己の社会主義の知識を提供したり、逆に山県の力を自己の保身に利用したり、並の文学者とは懸け離れた人なのです。』とあります。
実に興味深いですね。