山口市に「十朋亭維新館」というミニ・ミュージアムがあります。キャッチコピーは「明治維新の策動地」です。
十朋亭は、この地で亀屋という屋号で醤油醸造業を営んだ萬代家の土地と建物を伝来資料とともに山口市が譲り受け、整備したものです。徳川幕府の末期(文久3年・1863年)、攘夷の決行に際して長州藩主・毛利敬親は藩庁を萩から山口に移します(山口移鎮)。当時の山口には藩が所有する十分な建物がなかったので、豪商や豪農から別邸などを借り上げて御用宿としました。 十朋亭もそのひとつです。
十朋亭の名前は、易経の「益之。十朋之亀、弗克違。元吉」に由来します。
すごく意訳すると、”上の富を下に移して、あるべきところに納めれば、みんなが幸せになる。これは高価な亀で占わなくても間違いないことぞ” てな意味です。
御用宿の十朋亭の最初の住人が周布政之助(当時の長州藩では経産大臣のような人)でした。その後、桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞、坪井久右衛門、冨永有隣、白根太助、大村益次郎、前田孫右衛門、来島又衛門、山県有朋、伊藤博文、井上馨などが十朋亭の住んだり、住んでいる人を訪ねたりしました。また、吉田松陰の兄、杉民治は十朋亭に住みながら隣接する建物で塾(杉私塾)を開いていました。
現在は企画展、没後100周年企画展「十朋亭を愛した元勲 山県有朋」(12/19まで)が開催中です。十朋亭に山県が揮ごうした「凌雲気」の扁額が残っています。雲を凌ぐほどの盛んな意気が十朋亭にあったのだと思います。もちろん、山県自身にもです。
☞ 2022/09/28 安倍さんは山県有朋を目指していたのか
太平洋戦争開戦の直前(1941年11月8日)に、岩国の海軍航空基地で連合艦隊司令長官の山本五十六をはじめとしたメンバーで真珠湾攻撃の作戦会議がおこなわれました。その夜、岩国の老舗旅館に投宿した山本長官が、宿の主人の依頼で揮ごうしたのも「凌雲気」でした。
まだまだ見どころの多い山口県です。おいでませ山口へ!