安倍さんは山県有朋を目指していたのか

菅義偉前総理が安倍元総理の国葬で紹介した「かたりあひて 尽しゝ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ」です。

 

”山県有朋が、長年の盟友、伊藤博文に先立たれ、故人を偲んで詠んだ歌でありました。総理、いま、この歌くらい、私自身の思いをよく詠んだ一首はありません。” 菅さんは、安倍元総理を伊藤博文に、自身を山形有朋に置き換えて語っています。

 


山形有朋
山形有朋

弔辞の最後のくだりです。

”安倍総理、あなたは、我が日本国にとっての、真のリーダーでした。

衆議院第一議員会館、1212号室の、あなたの机には、読みかけの本が一冊、ありました。岡義武著『山県有朋』です。

ここまで読んだ、という、最後のページは、端を折ってありました。そしてそのページには、マーカーペンで、線を引いたところがありました。 

しるしをつけた箇所にあったのは、いみじくも、山県有朋が、長年の盟友、伊藤博文に先立たれ、故人を偲んで詠んだ歌でありました。

総理、いま、この歌くらい、私自身の思いをよく詠んだ一首はありません。「かたりあひて 尽しゝ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ」

深い哀しみと、寂しさを覚えます。総理、本当に、ありがとうございました。どうか安らかに、お休みください。


安倍元総理は自身がテロの凶弾に倒れることを予見していたわけではないので、『山県有朋』を読みながら自身を伊藤博文に置き換えていたわけはありません。むしろ、山形有朋に自身を投影していたと思います。そうすると、マーカーを引いた部分の安倍元総理にとっての”かたりあひて 尽しゝ人”、つまり盟友とは誰だったのかは気になります。

 

山県有朋も長州・山口県の人物です。1838年(天保8年)に萩で下級武士の子として生まれた山形有朋は、3歳年下の伊藤博文らと共に、吉田松陰の松下村塾に学び、高杉晋作らと奇兵隊を率いて倒幕運動に活躍します。

明治新政府では、廃藩置県、徴兵制の制定、地方自治制度確立、近代官僚制度構築など新体制の形成に深く関与し、第3代と第9代の内閣総理大臣、初代参謀本部長、初代内務大臣、枢密院議長などを歴任しています。伊藤博文とともに、近代日本の基礎をつくる中心的役割を果たしました。

 

伊藤博文は1885年(明治18年)12月22日に初代首相となり、9代の山県有朋の後任として自身5回目で最後となる10代首相を1901年(明治31年)5月10日まで務めました。この間は15年半、5612日ですが、伊藤が首相だったのが2720日、山県が1210日、合計3930日です。実に70%です。明治の近代化は、伊藤と山県の二人が支えたのです。

 

伊藤博文と山形有朋は同郷の長年の友人でありながら、政治的には対立を続けていました。政党政治を進める伊藤、政党不信の根強い山県。対外融和を希求する伊藤、リアリストの山県。といった構図です。

しかし、日本の近代化は2人の対立による相乗効果がもたらした成果です。藩閥政治から政党政治へと硬直した日本の政治体制を揺さぶり続けた伊藤がいたからこそ、山県の冷静な世界情勢の把握とその決断が成立したわけです。山県の本質を鋭く見抜く目が合ったからこそ、広く多面的な伊藤政治の成果が確立されたのです。

 

当時の日本を取り巻く情勢は、現代と似通っています。大陸には統治体制が乱れたまま軍備増強を続ける軍事大国の清、その清を背後から狙い南下を目指す軍事強国のロシアがあり、半島は党派抗争に明け暮れて安定とは程遠い李氏朝鮮がありました。

 

この状況下で山県有朋が主導した政策が、軍人勅語、参謀本部の独立、統帥権の確立などです。今でも多くの批判もありますが、もし山県有朋がいなかったなら、日本を含む東アジアは今の形ではなかったのも事実です。(ちょっと横道ですが、伊藤博文は対露融和政策というか非戦を主張してロシアが満州を領有することを仕方ないと思っていました。山県はロシアが満州を領土にすれば、朝鮮から対馬くらいまでは、すぐ領土野心に入ると断固として反対しました。どちらの判断が正しかったかは、今まさに自明です。)

 

日本が近代国家となり、先進国として世界の中心にあるのは、山県有朋の世界を俯瞰してみるたぐいまれな能力とためらいや迷いを絶つ決断力・実行力があったからこそです。

山県有朋は85歳の天寿を全うして大正11年に亡くなっています。安倍晋三には本来は後20年の時があったと思います。この20年の喪失が将来の日本をどう変えるのだろうか・・と考えてしまいます。