9.11、残業で遅くなって工場から帰る途中のラジオで第一報を聞きました。
テロ行為によって人の命は失われます。しかし、テロリストを殺人者とはあまり呼びません。テロリストは、目的のためには殺す人は誰でもいいからです。ぼんやりとしたターゲット、9.11の場合ではニューヨークのビジネスエリートとか、ペンタゴンのアメリカ軍関係者とか、はあるのですが、特定の誰かを狙っていません。
テロリズムとは、恐怖心を引き起こすことにより特定の政治的目的を達成しようとする暴力の行使、およびそれを容認する主義のことである。
そういう意味では、安倍元首相を殺害した男は殺人者ではなく、テロリストと呼んでよいかもしれません。
特定の政治的目的(旧統一教会の破綻)を達成しようとした暴力の行使であり、殺人のターゲットは安倍元首相でなくても構わなかったと供述しています。
何となく、このテロ殺人を容認あるいは賞賛する主義の人たちが、(政治的目的は違うかもしれないですが)日本国内には多数おりそうで、少々気味が悪いです。
ところで、何かの事件が起こった場合には、被害者側にも落ち度があるのではないかと考える人はいます。
例えば、レイプ事件でも被害者(多くは女性)にも落ち度があると考える人はかなり多いのです。服装とか場所とか態度とかに隙があったとか、ある程度被害を容認していたという見立てです。男女の大学生に対する調査では、女子学生でも被害者に落ち度があったと考える人は多く(場合によっては男子学生より高い)います。
殺人事件でも同様で、被害者にも何らかの落ち度があると考える人は多く、予測すること、回避すること、対処することの可能性が一定程度あったはずと答える人が多いようです。
テロによる被害でも、殺人ほどではないですが、被害者に落ち度があったと考える人は多いようです。実際、2001年の9月11日に、ニューヨークの高層ビルで働くビジネスパーソンに、テロ被害をどの程度予測できたのかは不詳です。
しかし、ビンラディンが聖戦(ジハード)を宣言し、アメリカがアルカイダの基地を空爆した後に、ロックフェラーのビルで働いていた人たちには一定の落ち度があったと考える人は多いのです。
被害者は被害者であり、本人もしくは遺族は、ショックや混乱のなかにあります。周りに寄り添われ、癒されていかなければなりません。しかし、ときとして、被害者は二度も三度も、ときには永遠に被害を受け続けるということがあります。これを止めるには、人の理性しかないのですが、今のマスコミや専門家や政治屋をみていると、求めても徒労でしょうか。