終戦記念日も近いので、新聞に日本の空襲被害についての記事がありました。
総務省のwebサイト「国内各都市の戦災の状況 > 宇部市における戦災の状況(山口県)」によると、宇部市の空襲は計8回、死亡者254人、行方不明者68人(合計322人)、負傷者557人、罹災人員2万5,424人(当時の人口の20.5%)、罹災家屋6,232戸、市街地焼失面積約65万坪(215万㎡=215ha)でした。
連合軍による空襲は、太平洋ベルト地帯(昔風にいうと第一国土軸)に沿って、まんべんなくおこなわれていました。これに加えて、日本海側の主要都市も標的になりました。
死者数は50万人(うち、広島と長崎の原爆で21万人、東京が11万人)を超えます。
宇部市への空襲は、合計8回ありました。焼夷弾による市街地への空襲は、昭和20年7月2日にあり、宇部市の中心市街地の大半が焼失しています。
宇部市への最初の空襲は、4月26日に藤山国民学校付近への爆弾攻撃とあります。国民学校は小学校のことですが、理由はよくわからないですが、どうも連合軍は各地で意図的に小学校近くを狙った攻撃をしていたようです。
これ以外の空襲6回は、工業地帯に向けた爆弾攻撃4回と機銃攻撃2回です。名前が3回出てくるのが帝国燃料です。当時、人造石油と称して石炭の液化をおこなっていました。艦船や航空機の燃料を製造する施設なので目標にされたようです。
注目は、7月29日の 「窒素工場、曹達工場および海岸通り爆弾攻撃、罹災者401人」です。死者も18人(19人とか25人という説もある)出ています。
この日には、3発の爆弾が投下されているのですが、これが「模擬原爆」だったそうです。アメリカ軍は、広島・長崎への原爆投下に先立って、50発の模擬原爆を準備して、日本各地で数次に渡る試験をしました。そのうちの3発です。
7月下旬のこの時点では、8月6日の原爆投下は広島市が目標(もともとは京都市だったのですが戦後の日本人の反発を恐れて外した)、8月9日は小倉市(北九州市)が目標、と決まっていた(実際は当日の小倉の天気が悪く、予備目標の長崎に投下された)ようです。
宇部市は模擬広島(模擬小倉)として使われたわけです。なんてこった!です。