今年の夏の甲子園、広島県代表は48年ぶりに福山市の盈進(えいしん)高校です。
この大会は、史上初めて春夏通じての初出場校がゼロとなりました。わかりにくい言い方ですが、夏の大会に初出場の高校は4校あるのですが、いずれも春のセンバツ大会に出場経験があります。出場回数の多い順に、県岐阜商、仙台育英、天理、智辯和歌山、高岡商、高松商、明徳義塾、星稜、横浜、鹿児島実までが20回以上。そのなかで、最も甲子園出場から遠ざかっていたのが、盈進高だそうです。
高校のとき、盈進高校が練習試合に来ました。当時の盈進のエース田辺繁文は、野球にたいして興味の無かった私たちにも名前を知られていました。
興味津々で、みんなで見物にいったのですが、軽く練習で投げているだけでも、「こりゃとても敵わん」と思いました。スピードが大違いです。
野球部に「凄いな」と訊くと「凄い」、「打てるか?」と訊くと「・・・(汗)」、「当たるのか?」と訊くと「・・・(笑)」。
当時の記事をネット検索すると、高校屈指の大型左腕。身長185㎝。1試合平均奪三振13、ノーヒットノーラン試合6回。とあります。球速は、当時の高校生では最速と言われます。スピードガンが使われ始めた頃、スピードガンの申し子と呼ばれた中日(星稜高校)の小松辰雄よりも田辺繁文のほうが速かったか?測ってみたかったですね。・・当時、市民球場でみた鈴木孝政より速かったような気もします。
但し、田辺繁文の盈進高校は甲子園には縁がなく出場していません。
田辺繁文は、高校3年の秋(1977年)に地元広島カープからドラフト1位(全体8位)指名されてプロ入りします。このときのドラフトでカープに4位指名されたのは捕手の達川光男です。尚、全体1位は法政大学の江川卓(クラウンに指名されたが拒否)でした。
郷土の期待を一身に集めた田辺繁文ですが、プロ野球では1年目に1試合に登板しただけです。打者6人に3安打1四球1本塁打で2失点、防御率18.00が生涯成績です。
プロの世界で活躍するのは、なかなか難しいということです(なんて、陳腐なことしか書けないのは情けない)。