轍(わだち)が深い道路があってちょっと閉口しました。轍は良い意味?悪い意味?
轍(わだち)は車輪(わ)の通った跡のことです。お馴染みの老子には「善行無轍迹」とあって、善い行いをする人は轍も迹(あと:足跡のこと)も残さない、と言っています。「前車の轍(てつ)を踏む」という場合は、轍は”前の人の失敗の跡”という意味で、これを繰り返すことです。どうも轍には悪い意味がありそうです。
ところで、似た言葉に「二の舞を演じる」というのがあります。舞(まい)が失敗した踊りのことを意味するのかと不思議に思いましたが、「二の舞」で一つの言葉でした。
「二の舞」は、”古典的な邪楽の曲名で、老爺と老婆の面をつけた二人が互いに相手の舞を真似るなど滑稽なしぐさをする”と説明されています。
戻って、轍そのものは悪い意味でばかり使われる言葉ではありません。中立的に行いの跡とされることもあり、むしろ良い意味で使われることもあるようです。
轍が良い意味で使われるのは、それが前車が通った跡ではなく、自らの後ろにできた跡である場合です。誰も入ったことの無い荒野に、自らが轍をつくる。それが、信念に基づいた美しい轍であったなら、尊く誇らしいものだと思います。高村光太郎が「道程」で「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」と書いているのを思いだします。
ところで、轍で検索したら、コブクロの「轍ーわだちー」という曲が出てきました。歌詞のなかに「轍さえもない道をただ進め」とあります。この場合、道はあるけど、轍が無いというわけです。まぁ、無限の荒野に踏み出したり、暗闇の大海に帆を上げるのもどうかと思いますから、正しい人生行路の教えかなとも思います。
♬ そんなに遠い目をして 君は何を見ているの
一秒ずつの未来が 今も通り過ぎているのに
眠れないほど悩んで 見えた答えがあるなら
君さえ知らない君を 見つける旅に出かけようよ
轍さえもない道をただ進め
抱えきれない夢が 不安に変わりそうな日が来たら ♫