今日は4月1日「エイプリルフール」です。念のためです。
マルコポーロは1254年にベネチア共和国の商人の子として生まれました。17歳のマルコポーロは父と叔父とともにアジアに旅立ちます。その後、中国などで商売を続けて、後に東方見聞録として有名になる口述をおこなったのはベネチアに戻った40歳以降(1295年頃)のことのようです。一方で、2度にわたる蒙古の侵攻は1274年と1281年のことですから、直接の関係はなさそうです。
ロシアのウクライナ侵略が続いています。
日本が自国領土に外国から攻めてこられたのは、モンゴル帝国による侵攻(元寇)が、数少ない事例です。
元寇は2回あり、1回目は1274年(文永の役)、2回目は1281年(弘安の役)です。
当時のモンゴル帝国は、史上最大の帝国です。西は、ロシアの主要地域を含めてウクライナ・ベラルーシに至り、さらに中央アジアからイラン・イラクからトルコに広がり、中国全域から朝鮮半島までを領地としていました。面積2400万㎢(世界の陸地の17%)、人口1億人(世界の人口の約25%・日本人口は約500万人)でした。
モンゴルはチンギスハンによって1206年に建国されていますが、中国の北部を支配していた金を1232年に破りました。その後、モンゴルは南の宋に数次の侵攻をおこない、44年間も続く戦争の末に1279年に宋を滅ぼして中国全土を統一しました。
また、モンゴルの朝鮮半島侵攻は1231年に始まり、高麗は28年間も必死に抵抗しましたが1259年に降伏しました。その後も高麗人の抵抗は15年近く続きましたが、1273年にモンゴルは朝鮮半島全土を掌握しました。
この状況での日本侵攻です。モンゴルと日本では国力や兵力では圧倒的な差があります。
文永の役では、モンゴル軍は3万5千人ほどでしたが、満を持して侵攻した弘安の役では14万人の大兵力です。それに加えて、モンゴル軍は当時の最新兵器である火薬を使った「てつほう」や、バネで石を投げる「石弓」などを装備していました。
対する日本軍は、兵力こそ6万5千人ですが「やあやあ、我こそは・・」という時代ですし、矢もせいぜい100mしか飛ばない弓しかなかったのです。現在のロシアとウクライナの状況と似ています。
それでもモンゴル軍が結果的に短期間で敗走することになったのは、兵站が長すぎて(海路ということもあります)補給がままならなかったことと、侵略した宋や朝鮮の兵が主力なので士気が高まらなかったことが主な原因のようです。
文永の役で九州本島に戦いはわずか2日(対馬侵攻から数えても17日)で終わり、モンゴル軍は撤退します。弘安の役でも朝鮮半島からのモンゴル軍が九州本島に到達してから、完全撤退するまではわずかに3か月半です。(大陸の戦争は何十年も続きますが、日本人はそこまで長期の戦争をイメージし難いです。ロシアのウクライナ侵略戦争も長期化の懸念があります。)
この2度の遠征の失敗で、海軍力の2/3を損なったモンゴル軍は、その後日本に攻めてくることはありませんでした。
博多の筥崎宮の楼門には「敵国降伏」という額が掲げられています。元寇の際に、亀山上皇が自ら筆をとって書かれた書を、毛利元就の三男・小早川隆景が模写拡大して掲げたものです。
上皇としては、強大な敵がやってくるのに対しては、神に援けを願うしかなかったということです。