新型コロナに限らず、生きているといろいろなリスクに遭遇します。
リスクがある状態を放置すれば大きな被害が出ます。そこで、費用を掛けてリスクを削減しようとしますが、リスクが全くない状態にするには大きなコストがかかります。そこで、被害の削減額とコストが釣り合ったところ、つまり社会的費用が最小になるところまで対策を取ります。これが、社会的に最適なリスク水準となります。
新型コロナでマスコミや政治家が無責任に言う「ゼロコロナ」は、社会的資源の配分という観点では存在しません。
人間が生きる・生きているということが、そもそもリスクと共に存在しているということに他なりません。
人があらゆるリスクを取り除いて生きることはできないですし、もしできたとしてもそれは生きているということになりません。
但し、リスクと共に生きる場合に、よりよく生きることを求めるのは当然です。
人がよりよく生きるカギは「情報」です。可能な限り”必要な情報”を、欠けることなく、必要とするときに、正確に、精度の高い計測で、入手できることが大切です。もし、この情報が入手できて、評価できる能力があるならばリスクは怖くありません。
情報が入手できていれば、人の行動は期待効用仮説によって決めることが可能になります。例えば、会社帰りに居酒屋で仲間と食事をするときの感染症リスクP(A)と、真っすぐ帰宅して一人で食事するときの感染症リスクP(B)。居酒屋の食事で得られる効用や満足度U(A)と、一人でテレビを観ながら食事する効用や満足度U(B)を評価します。
P(A)>P(B)というリスクの差と、U(A)>U(B)という効用の差、そのどちらが大きいかで人は行動の意思決定をするわけです。
問題はこの「情報」が入手できないときです。最初に人は過去の経験のなかで、似たような情報が得られないか探ります。欠落している情報ピースを経験で補うのです。これは、通常に人がおこなうことで、新型コロナでも本来は有効な方法です。
もし、情報も経験もないことに遭遇したとすれば、専門家の発信やマスコミの報道などから得られる疑似体験でこれを補うことになります。新型コロナの場合は、専門家やマスコミが不正確(不誠実と言ってもよい)な情報を提供したり、正確な情報を提供しなかったりするものですから、人は意思決定ができません。
政治は社会的に最適なリスク水準をある程度の確率で置いて、それに向けた政策を選択するべきです。社会的に最適なリスク水準が、国民の利益になるからです。
しかし、衆院選挙において、与野党ともにさらに多額の費用を追加投入する政策を競っています。国民に、政治への信頼感があればこの追加費用は不要ですから、政治が信頼性を確保することは重要です。
但し、この費用を払うのも国民であることを忘れてはならず、信頼できる政治をつくるのも国民だということです。