このところ、キャリア官僚への風当たりが強くなっています。まぁ、自業自得的の部分も多いわけですが・・。それでも、国にためには皆さんの力が必要です。
北宋時代のキャリア官僚の言行を、朱子学の開祖である朱熹が編纂したのが「宋名臣言行録」です。中国古典の金字塔の一つともされています。日本では元禄時代に出版されて広く知られるようになり、吉田松陰の愛読書としても有名です。松陰より有名なのは、明治天皇が宋名臣言行録を毎日毎日擦り切れるほど読み込んだということです。
明治天皇が何かにつけて宋名臣言行録に関連する質問をするもので、伊藤博文とかの明治の元勲たちも日を置かず読み返していたそうです。
宋の時代のキャリア官僚とは、科挙というめちゃめっちゃ難しい試験に合格した人です。
官僚組織は、民政(中書省)・軍政(枢密院)・財政(三司)の3つに分かれていました。これに、王の秘書機関(翰林学士)と官僚組織全体を監察する機関(御史台)が付属します。まぁ、現代の官僚組織と大差はありません。
中書省のトップが宰相で、その下が副宰相です。但し、宰相も副宰相も一人だけではなく、複数いました。これは、最終的には皇帝(天子)がいるので成り立つやり方です。
この本で、名臣として紹介されているのは、多くが宰相あるいは副宰相です。
この時代の最重要人物は、新法党の領袖である王安石です。僅か22歳で科挙に合格しますが、当時の中央官界を嫌って貧しい地方を選んで任官します。転々としながら地方再生に取り組んだ王安石は、神宗(北宋6代皇帝)の即位とともに中央政界に招かれます。
このとき46歳です。49歳で宰相の地位についた王安石は、財政難を乗り越え内政を充実させる新法を展開します。結果的に、この新法は旧来勢力の抵抗にあって失敗に終わるのですが、後世の評価は高いです。
もう一人紹介すると、太宗(2代皇帝)の宰相、呂蒙正の言行が面白いです。
太宗に対して「大国を治めるには制度の改革を繰り返したり、新しい規制をつくることに捉われないで、清浄な心で自然におこなうことが肝要です。」と語っています。
運送業者が年貢物を掠めて売ったのを見つけた役人に「水清ければ魚住まず。それとなく注意をして、わかっているぞと知らせよ。騒ぎを大きくしてはならない。」と指示をします。
呂の陰口を言った役人があったので、同僚がこれを伝えると「その名を私に告げてはならぬ。知れば忘れられなくなる。知らないことで損をすることは無い。」と応じます。
呂が宰相になったころ、知遇を得ようと古鏡を献上した者に「私の顔は木札ほどの大きさでしかない。二百里先を照らす鏡は無用だ。」と断ります。
呂宰相は多くの官僚を自由に働かせたので縄張り争いがしばしばおこりますが、「よいではないか。私がその人を信じて任せているのだから。」と取り合いません。
呂は今でいうメモ魔で、どこに行っても何かのメモをとります。特に、有為な人物を見たり、噂を耳にすると必ずメモして、後で分類してデータベースとして整理しました。ある人物の評判を異なる場所で異なる人から聞いたなら、その人物は特に優秀と考えて別に記録していたそうです。このため、呂が太宗の宰相であった9年間は、宋の官僚組織は特に適材適所が徹底されていたということです。
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