ひょんなことから、川南豊作という方のことを知りました。こんな人がいたなんて・・・。
ビックリ仰天の波瀾万丈な人生を送った方ですが、あまり知られていません。少なくとも、私は全く知りませんでした。天才的な技術者であり経営者であったことは間違いないので、もう少し知られていても(研究されていても)よさそうです。
長崎新聞が平成元年に「本誌創刊百周年記念企画~川南から三菱へ<造船の島の激動>」という毎週金曜日に5回の半面連載をした記事を読みました。題名とは異なり、川南豊作が長崎にたどりついてからの半生記です。詳細な内容で、文庫本だと30~40ページくらいの分量になります。
これを全部紹介することは、このブログでは不可能なので、先ずはリンクを貼ります。
☞ 文春オンライン「三菱重工が長崎造船所香焼工場を売却 元オーナー川南豊作がたどった数奇な運命」
最も興味深いエピソードだけを紹介します。
川南豊作は明治35年(1902年)に富山県砺波郡井ノ口村というところで貧しい農家の子として生まれます。短気で暴れん坊な少年だったそうですが、気宇壮大な頑張り屋でもあったようです。県立水産講習所を卒業して、東洋製罐に入社します。東洋製罐で缶詰製造に携わるのですが、猛烈な仕事ぶりで頭角を現し、当時の社長高岡達之助の目に留まる幸運を得ます。
大正13年(1924年)に、高岡の命を受けて製罐技術の習得を目的として渡米します。川南青年22歳です。実は、渡米の目的は製罐技術の習得というより、産業スパイのようなものだったようです。そこで見聞きした罐つくりのノウハウ(特に胴と蓋をくっつける巻締の技術だそうです)を持ち帰ったことが、その後の日本の製罐に活かされたようです。
川南青年は、昭和6年(1931年)に東洋製罐を退社し、朝鮮に渡ってイワシのトマト煮缶詰の生産を手掛けます。「川南式製法」といわれるつくり方は、安価で美味しいことから評判になり、平戸と福江にも工場をつくり、日本国内でも販売して大きな成功を得ます。
さらに、伊万里でソーダ工場を買収してソーダ事業に乗り出します。ところが、ソーダ事業は財閥の独占分野だったので、猛烈な反撃にあって安値競争になります。
ソーダの原価は、原料の塩で決まるので自前で安く船をつくって運べばいいと考えた(この発想がよくわからないですが)川南豊作は、昭和11年(1936年)に、10年以上前に廃業していた草ぼうぼうで荒れ放題の松尾造船所を買収して、造船事業に乗り出します。
その直後、昭和13年にロシアからの受注で3隻の耐氷船をつくるのですが、日中戦争の激化で日本政府から納品を止められます。その船が後に南極観測船「宗谷」となったのです。
実は、川南はこのときロシアから前受金をもらっていましたが、事情が事情なので返金をしていません。出来上がった船はちゃんと売れたので二重取りで大きな資金を得ました。(その後、ロシアから裁判を起こされて、前受金は返金するのですが、その間無利子でお金を借りていたことになります。)
その後、船は鉄板を曲げた箱で缶詰と似たようなものだという一種独特な考えの簡易造船方式でどんどん船をつくります。折しも、戦況は厳しさを増してきます。日本では新たに造られる船より、アメリカ軍の魚雷で沈められる船のほうが多くなっています。川南造船所がつくる船の数は増え続けて、昭和19年(1944年)度にはついに17万1千トンとなり、建造量日本一の造船所となったのです。川南豊作42歳です。
~続きは、また今度~