三原駅前にHOTEL TODAIというこじんまりしたビジネスホテルがあります。
TODAIとは?と思いますが、灯台です。何故、灯台なのか?というと(所有などの関係は不明ですが)若山彰が三原市出身だからです。若山彰は「喜びも悲しみも幾年月」で有名な、昭和32~35年に4回続けて紅白歌合戦に出場した歌手です。「喜びも悲しみも幾年月」は同名の松竹映画の主題歌です。”♪おいら岬の 灯台守は 妻と二人で 沖行く船の~♬”です。
明後日が6月6日ですが、6月6日を「六連の日」とすることが決まったというローカルニュースがありました。
六連とは、下関市のすぐ沖合にある六連島(むつれじま)のことです。溶岩台地の島で、面積69haに人口86人。
イメージすると、東京ディズニーランドよりちょっと広いところに、86人しか住んでいません。ただ、寂れた印象はなくて、対岸の下関側からは大規模な石油基地(19基の石油タンク)がよく見えます。
このところ六連島が脚光を浴びているのは、昨年12月に六連島灯台が国の重要文化財に指定されたことです。日本列島にはたくさんの灯台があるのですが、国の重要文化財に指定されたのは、六連島灯台が7基目です。7基のなかには、もう一つ山口県から角島灯台も指定されています。
六連島灯台(1872年・明治5年)と角島灯台(1876年・明治11年)はいずれも明治のはじめにつくられています。この頃、日本列島は灯台建設ラッシュです。日本最初の洋式灯台は観音崎灯台(1869年・明治2年1月1日点灯。明治1年は4ヵ月足らずなので主に建設されたのは慶応年間)ですが、その後もどんどんつくられています。
この灯台建設は日本が望んだものというより、当時日本に押し寄せていた欧米列強が要求したものです。日本周辺の航海の安全のために、最初は江戸幕府に、後は明治新政府に灯台の建設と運用を要求しました。
江戸条約というもので、その第11条に「日本政府ハ外国交易ノタメ開キタル各港最寄船ノ出入安全ノタメ灯明台、浮木、瀬印木ヲ備フベシ」とあり、実はちょっと無理強いされていたのです。
灯台をつくれといきなり言われても、幕府も明治政府も困るので、お雇い外国人技術者に頼むことになります。1865年・慶応元年にフランス人のヴェルニーが来日し、明治改元となる1868年にイギリス人のリチャード・ブラントンが来日します。
六連島灯台も角島灯台も、ブラントンの設計によるものです。ブラントンは、日本滞在の7年半の間に灯台26、灯竿5、灯船2を設計し「日本の灯台の父」と呼ばれています。
ブラントンとは、さぞや素晴らしい技術者だろうとなるのですが、経歴はちょっと微妙です。
ブラントンは、1841年にスコットランドで生まれて中学を卒業した1856年から5年の年季で工場の技術見習い(徒弟奉公)になります。20歳で年季の明けたブライトンは、工場労働から離れて鉄道敷設に従事します。鉄道建設技師として5年の経験をした25歳のブライトンは、日本に行って灯台建設をする技師を募集しているという情報を耳にします。
ブライトン青年に灯台建設の知識も経験も無いのですが、これに応募すると採用されます。採用後に、3ヵ月ほど灯台技術の速成コースで勉強しただけで日本行の船に乗ります。
2か月の船旅を終えて日本の地を踏んだ26歳のブライトンは、ただちに日本列島の海岸線2400kmを1か月半で踏破して、8か所に灯台を建設することを決めます。
これって、すごいです。半年ちょっと前まで、地球の反対側で鉄道技師をしていた青年です。
その後の7年半のブライトンは灯台建設にまい進するのですが、なんとそれだけでなく、ある意味本業であった鉄道敷設でも大活躍します。
ブライトンは、来日の半年後には新橋~横浜間の鉄道敷設の基本構想を新政府に提案しています。東京に大きな港は作れないので、横浜港から東京への鉄路が必要だというのがブライトンの考えでした。灯台建設のために海岸線を歩いた成果です。これもすごいでしょ!
何だか、あっちこっち話が飛びましたが、六連島には1日4往復の渡船があります。六連島灯台見学に・・おいでませ!山口へ