渡邊祐策(わたなべすけさく)は、1864年生まれ(明治元年が1868年なので4年前)。
言わずも知れた宇部興産グループの創業者です。宇部市民でその姿(写真や銅像ですが)を知らない人はいないでしょう。
Wikipediaによると、「岩国の陽明学者・東沢瀉の私塾で学び、教師を目指す時期もあったが家族を養うため家業への専念を余儀なくされた。そんな祐策を社会に引っ張り出したのは先輩の林仙輔氏で上宇部村戸長役場用掛の仕事を紹介した。」とあります。
東沢瀉(ひがしたくしゃ)とは誰かと気になると、岩国市観光webで紹介されていました。陽明学・良知心学の先生です。
西の松陰(吉田松陰先生)、東の沢瀉と呼ばれるほど有名な先生だったそうです。
祐策少年が、沢瀉先生から何を学んだものかはよく分かりません。下級士族(というか苗字帯刀を許された農民)出身の祐策少年の人格形成にとって、陽明学は適していたのだと思います。
次に気なるのが林仙輔です。渡邊祐策より1年年長です。林家は上級士族の家柄で、仙輔の二代前までは藩の蘭方医でした。福原芳山(ふくばらよしやま)が大阪裁判所の判事になった際に、仙輔は一緒に大阪に行って学びます。その後、祐策とともに宇部の産業発展に貢献するのですが、主な功績は宇部村長から宇部市長として地方自治に対するものです。
林仙輔が大阪で学んだのが、泊園書院という漢学を教える私塾です。現在の関西大学のルーツだそうです。
当時の宇部の政財界では、沢瀉塾と泊園書院の出身者が多く活躍しています。
村田増太郎は宇部鉄道の創設や笠井順八が亡くなった後の小野田セメントの経営に力を注ぎましたが、沢瀉塾と泊園書院の両方に学んでいます。
紀藤閑之介も沢瀉塾と泊園書院の両方に学び、宇部銀行、宇部工業学校を設立します。宇部興産という社名を決めたのも閑之介だそうです。
コロナ騒動もあって、当分大阪に行く機会はなさそうですから、岩国に行ったときには沢瀉塾の跡を訪問してみようと思っています。