コロナ騒動で今年もお祭りは縮小です。宇部市の隣、山口市阿知須の「ひなもん祭り」は、市の施設「旧中川家住宅(いぐらの館)」で展示だけがおこなわれています。
”ひなもん”は、”吊るしびな”、”下がりびな”です。町おこしとして企画され、毎年多くの観光客を町に呼んでいました。昨年に続き2年連続の中止となりました。そこで、少し阿知須の町を紹介してみます。
江戸時代、右田毛利家が阿知須浦を給領地としていました。阿知須浦は廻船の船泊として発展します。
廻船というのは、日本列島の周囲を廻る船です。日本国内の物流は、道路や鉄道が整っていない時代は、水上の船が担っていました。1671年に本州を一周する東廻り航路・翌年に西廻り航路が開発されました。
廻船が安全に公開するには、各地に整備された寄港地が必要です。阿知須浦は、その寄港地の一つだったわけです。
江戸時代では、赤間関(今の下関)や小倉から出た廻船は阿知須浦を経由して、芸州へとつながっていきました。
廻船が運ぶのは、米・大豆の他、水産品、綿や布など様々です。日本海側・山陰地方の産品も瀬戸内海を経由して安芸・備後へと運ばれました。記録によれば、越後米など北国の産品も阿知須浦には届いています。
また、毛利氏は防長三白といって、米と綿と紙の生産を奨励していたので、これらの山口産品も廻船を通じて、上方まで運ばれました。
廻船の仕事は、明治になっても続きます。阿知須の廻船業のピークは、明治10年代だったようです。この頃の阿知須浦の廻船数は200隻を超えていました。
この頃、阿知須の廻船業者は、防火の目的で瓦葺の屋根、漆喰で塗り固めた大壁、泥戸等を備えた、いわゆる「いぐら(居蔵)造」を建てました。
阿知須のまちには、この居蔵造の建物が残っています。白壁の小径は、ちょっと郷愁を誘います。
おいでませ!山口へ