文化の日です。山口県立美術館では「雪舟600年」という企画展をおこなっています。
雪舟は、備中の国で1420年に生まれています。今年で生誕600年となります。雪舟が、大内教弘の庇護を受けて、山口に移ってきたのは、1454年(雪舟34歳)の頃です。1467年に遣明船(大内氏が仕立てた大内船)で中国に渡り、水墨画を極めます。2年後に帰国してからは、山口を含めて、西日本各地を廻って多くの名画を残しました。
少し時代背景を考えると、雪舟が明に渡った1467年というのは応仁の乱がはじまった年です。
応仁の乱は、室町幕府の8代将軍である足利義政の後継者を巡る争いです。当時の足利将軍家は既に力が無くて、有力守護大名の傀儡だったので、跡目争いは守護大名同士の、あるいは守護大名家内のお家騒動のかたちをとって、京から全国に広がり10年続く内乱となりました。戦国時代の幕開けです。
応仁の乱は、敵と味方が入り乱れ、寝返り・裏切り、何でもありなので整理することは困難です。一応、義政の子・義尚を押すのが西軍で、義政の弟・義視を立てたのが東軍ということになります。
西軍のトップが山名持豊、東軍のトップが細川勝元で応仁の乱ははじまりました。戦乱の舞台が京の都だったことで、多くの公家が命からがら、大内氏を頼って山口にやってきました。山口が西の京と言われるようになった、きっかけです。
その後、山名持豊(山名宗全のほうが有名:同じ人です)が亡くなったので、大内政弘(大内教弘の子)が、代わって西軍のトップにつきます。当時の大内氏は、周防・長門・筑前・豊前・肥前・安芸の6か国(広島県の西半分から北部九州まで)を支配する大大名でした。
応仁の乱そのものは、足利将軍家は1473年に義尚が9代将軍として継承したので、戦う理由が無くなっていたのですが、そのままグダグダと続きます。最後は、大内政弘が京から山口に引き上げて、何となく終わりました。1477年12月23日のことです。
雪舟は、1469年に明から戻ると、応仁の乱による戦禍を逃れながら、大内氏の影響下にある諸国と、その周辺を廻っているようですが、詳しい消息が不明です。このことから、雪舟は、大内氏が派遣したスパイだったとする俗説もあります。
雪舟が山口に戻って落ち着くのは、大内政弘が帰国した後、1478年のことです。