村上春樹の「海辺のカフカ」に、「すべては想像力の問題なのだ。僕らの責任は想像力の中から始まる。」と、イェーツの詩が引用されています。
Wikipediaによると、”ウィリアム・バトラー・イェイツ(William Butler Yeats, 1865年6月13日 - 1939年1月28日)は、アイルランドの詩人・劇作家。アイルランド文芸復興の担い手であり、モダニズム詩の世界に新境地を切りひらき、20世紀の英語文学において最も重要な詩人の一人とも評される。1923年にノーベル文学賞を受賞した。
18世紀から20世紀初頭にかけて、イギリスでは「想像力」というものが、大いに議論され、展開していきました。
この端緒にあるのが、ベンサムの功利主義の基礎となったフランシス・ハッチソンです。その後、ハッチソンの弟子にあたるアダム・スミスから、ウイリアム・ハズリットへと繋がっていきます。
何故、すべては想像力の問題なのでしょうか?責任は想像力の中から始まるでしょうか?また、村上春樹の書くように、本当に、想像力のないところには責任は生じないのでしょうか?
このことを、すっきりと理解することはとても難しいことです。
人の意思や行為は未来にしか関われません。どんなに優秀な人でも、過去を変えることはできません。つまり、人の意思や行為の対象は、未来だけです。
しかし、未来は、現在には存在していません。人は存在していないものに関心を持つことができません。「想像力」が生み出す未来の「観念(Idea)」にのみ関心を持つわけです。
未来は、自分にもありますが、他者にもあります。そして、自分の未来も他者の未来も、両方とも現在には存在していません。「想像力」が生み出す未来の「観念」は、その程度に差があったとしても、自分のものでも他者のものでも、本質的な差異はありません。
つまり、自分にとっても、自分の未来は、他者であり、虚構なのです。すべては想像力の問題なのです。また、責任とは、何かの事象に対する応答ですから、これから起こることの原因は想像力の中から始まります。
「想像力」について深く考えていくほど、人は無私的仁愛を極めて、道徳的な善を求めるようになるのだそうです。繰り返しになりますが、自分の未来も、他者の未来も、すべては想像力の問題なのです。人は誰でも、「想像力を高める喜び」を感じなければいけないようです。