日本では憲法改正の論議を大日本帝国憲法制定以来130年間ずっとしています。
明治23年(1890年)に制定された大日本帝国憲法は、その後1度も改正されないままでした。そして、56年後の昭和21年(1946年)に初めての改正がおこなわれ、翌昭和22年(1947年)に日本国憲法と名を変えました。それ以来73年に渡り1度の改正もされていません。古今東西であまり例が無いようです。
法律の専門家ではないので誤解があるかも知れませんが、何故こんなことになったかというと、憲法が自分でつくったものではないからだと思います。
明治憲法(大日本帝国憲法)はアジアで最初の近代憲法です。当時としては、極めて先進的な憲法で、立憲君主制と議会制という二本柱を取り入れています。
明治天皇が憲法制定を命じたのは、明治維新から僅かに9年目のことです。
明治9年といえば廃刀令が出たことに旧士族の不満が爆発して騒乱がおきた年です。まだちょんまげしている人もいた頃です。尚、西南戦争が翌、明治10年ですから、まだ江戸から明治への混乱が続いていた時期です。
ここから、明治政府が憲法について一生懸命に世界の憲法を勉強してつくったのが明治憲法です。この中心人物が伊藤博文ですね。
明治20年に完成したのですが、発布は明治22年で、明治23年(1890年)に施行されました。欽定憲法といわれるように、君主である明治天皇が制定した憲法です。
憲法は本来時代の変化によって改正されるものです。
憲法制定後、明治27年の日清戦争、35年の日英同盟、37年の日露戦争と続き、日本は不平等条約の解消を果たすも、列強のアジア進出は進む、といった変化がありました。
時代の変化に合わせて明治天皇は伊藤博文と憲法改正を模索し準備を進めていました。ところが、明治42年に伊藤はテロによって暗殺されてしまいます。明治天皇も明治45年に亡くなるのですが、伊藤の死によって明治憲法の改正は果たせないままになりました。
時代に合わない明治憲法が、大正、昭和と生き残った結果が日本を戦争へ、そして敗戦へと導いたというのが史実でしょう。何しろ、アジアで初めてつくられた憲法ですから、悪用や乱用できる穴があるものでした。
明治憲法の改正を明治天皇の手で成しえなかったことが、その後の日本にとって不幸なことだったわけです。<続き>