誰でも、伊藤博文公が日本の初代総理大臣であることぐらいは知っています。
伊藤博文公は現在の山口県光市で1841年に産まれています。伊藤公記念館に復元された生家があります。亡くなったのは1909年です。中国ハルピンの駅で、安重根という韓国人の青年に狙撃されました。伊藤博文公の墓は、東京都品川区の西大井にあります。東京に住んでいたときには。この墓所の前をよく通っていました。
伊藤博文は、天保12年(1841年)に周防国熊毛郡束荷村に林十蔵と琴子の長男として生れます。その時の名前は利助です。林利助が生れた時の名前です。
貧困な農家であった林家は利助が6歳のときに破産して、父十蔵は萩に働きに出ます。利助は母と母の実家に身を寄せます。
利助は9歳のとき、母とともに萩の父親のもとに行きます。利助はその頃から学問を志します。利助が14歳のとき、父十蔵が長州藩の下級武士伊藤家の養子となったことから、利助は伊藤俊輔と名を改めます。そして、17歳になった伊藤俊輔は松下村塾に入り吉田松陰に学ぶことになります。
その後はざっと、・・23歳のとき仲間4人と英国へ渡る(”長州ファイブ”)。28歳のときに明治改元となり、名を博文と改める。31歳のとき岩倉使節団の副使として欧米を歴訪。42歳のとき憲法制度調査のため渡欧。45歳のとき、初代内閣総理大臣(その後、伊藤博文は3度首相となり、通算在職日数は2720日に及ぶ)となる。48歳のとき、憲法草案を奉呈、初代枢密院議長(その後も2度議長を務める)となる。翌年、大日本帝国憲法が発布される。下関条約に調印したのが55歳。第四次伊藤内閣を組閣したのが60歳(翌年、桂太郎に政権交代)。63歳で三度目の枢密院議長を務めた後、65歳で初代韓国統監となり、4年後に69歳のときに冒頭にあるように狙撃されて亡くなる。
伊藤博文は、近代日本の立憲君主制の基礎をつくりました。君主権を制限する近代憲法をつくりあげ、政党政治の道筋をつけました。欧米列強との不平等な関係を正そうと努め、その欧米各国から高く評価されました。日露戦争に反対するなど平和主義者で、欧米列強と清国の協調を促したように協調外交を基本としました。
首相、枢密院議長を歴任し、海外からも高く評価されて平穏な引退ができたはずの伊藤博文は、65歳で韓国に渡ります。当時の65歳は今では80歳以上のイメージでしょう。
老境の伊藤公は韓国で何を成し遂げようとしたのか、何故それが叶わなかったのか。
伊藤公が暗殺されるまでは4年足らずの期間ですが、それまでの活躍からみれば短い時間でもありません
そして、自らを朝鮮独立運動家(実は特権階級の出身)と名乗り、現在の韓国では英雄になっている安重根は、はたして伊藤博文のことをどこまで知っていたのか。
伊藤博文を失った韓国は、そして日本は、その後どうなっていったのか・・。
歴史に"if"はありませんが、残念なことです。