女子が長距離を走っていなかった時代

日本の女子マラソンの指導者:小出義男さんが亡くなりました。80歳。

 

有森裕子、高橋尚子、千葉真子、鈴木博美などを育て、日本女子マラソンを世界に飛躍させた名伯楽です。次代を遡ると、小出監督が市立船橋高校の教員を辞めてリクルート陸上部監督になったのが1988年で、有森裕子がリクルートに入って初マラソンの大阪女子マラソンで6位入賞したのが1990年、銀メダルを獲得するバルセロナ五輪は1992年です。

 

小出監督&高橋尚子
小出監督&高橋尚子(2000シドニー五輪)

有森裕子がマラソンをするきっかけは、増田明美に憧れたからだそうです。増田明美はテレビ解説のユニークな選手紹介で有名ですが、日本の女子マラソンの先駆者の一人で、1984年のロサンゼルス五輪の日本代表です。

 

実は、女子マラソンがオリンピック競技になったのは、増田明美が出場した1984年のロス五輪が最初です。

 

今となっては信じられないことですが、それまで女子選手に中長距離走はできない、マラソンは無理だと信じられていたのです。

実際、女子の陸上競技は短距離に限られていました。1956年のメルボルン五輪では100mと200mしかなく、1960年ローマで800mが加えられ(1964年の東京も100・200・800mの3種目)、1972年ミュンヘンで1500mがおこなわれ、1984年のロスで3000mとマラソンが追加されたのです。

 

1984年のロス五輪マラソンの優勝はアメリカのベノイト(2時間24分52)ですが、2位にノルウェーのグレテ・ワイツ(2時間26分18)が入りました。3位も有名な、ポルトガルのロザ・モタです。日本は増田明美は棄権、佐々木七恵が19位(2時間37分04)でした。

 

女子マラソンという競技がおこなわれるようになったのは、ロスで2位に入ったグレテ・ワイツの功績が大きいのです。ワイツは18歳のときミュンヘン五輪の1500m代表に選ばれ、22歳のときには3000mの世界記録を出します。しかし、五輪競技には3000mもそれ以上の長距離種目はありません。中学教師をしながら、主にクロスカントリーの大会(5000m以下)に出ていた25歳のワイツは競技からの引退を考えます。

 

ワイツが最後のレースに選んだのが1978年の市民マラソンの草分けであるニューヨークマラソンでした。ワイツは初マラソンです。練習でも20km以上を走った経験がありません。

夫と友人たちとアメリカに渡ったのが木曜日。金曜日と土曜日は、ニューヨーク市内観光をして、たっぷりの食事と少しのお酒も楽しみます。レースは日曜日で、その日のうちにノルウェーに帰って、教師としての仕事に戻る予定です。

 

 

スタート地点に立ったワイツは廻りの選手をみて「こんな太った人が42km走れるんだったら、私も大丈夫」と思います。結果は、2時間32分30秒の世界記録で優勝です。

女性が長距離走に適していないという迷信が完全に吹っ切れた瞬間でした。