新元号は令和!桜か梅か

5月1日に改元となる新しい元号が「令和」に決まったと発表されました。

 

元号を決めるには非常に制約が多いので、果たして広く国民が納得できる二文字の組み合わせができるものなのだろうか?と心配していました。「令和」と聞いて、うまく作ったものだなぁ、流石だなぁと感心しました。「令」という字は元号に初めて使われるそうですが、好い字が残っていたものです。(「和」は20回目で頻出です。)

 

天神さまの梅
天神さまの梅

令和の由来は、天平2年(730年)に、山上憶良が、大宰府にある大伴旅人の邸宅で開かれた梅見の会の出席者が詠んだ歌の序として書いた文だそうです。

「初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす」

 

※実はこの文のことを以前のブログで取り上げています。ちょっと、惜しい?!

2018/12/15

「開店開業には胡蝶蘭が華やかです」

 

万葉集では、桜を詠んだ歌が43首で梅を詠んだ歌が132首です。梅を愛でた歌が多くなっています。

桜も梅も日本古来のものですが、古くは、花を愛でて宴会をするという風習が日本になかったようです。花を綺麗だなとは思って眺めてはいたのですが、桜も梅も実を食べるという実用もあったわけで、花見を楽しむという感じではなかったのでしょう。

 

花見の風習は、平城京の時代になって、中国(唐)から伝来して広まっていったようです。山上憶良が遣唐使に随行して唐に渡ったのは大宝2年(702年)のことですから、憶良が流行の発信源かも知れませんね。尚、次の遣唐使は阿倍仲麻呂らが赴いた養老元年(717年)です。

 

実は、ちょうどこの時代に、唐でも花見の風習が新しい流行になっていたようです。

唐は隋の将軍だった李淵がクーデターを起こして建国しました。618年のことです。隋も唐も漢民族の国ではなく西方遊牧民に起源を持つ国家です。唐の都である長安はシルクロードの東の拠点でした。花見の風習は、西アジアから長安へと伝わったもののようです。

この時代の長安の花見は、梅ではなく牡丹でした。 

 

花見の風習が日本で定着した万葉集の頃は唐風文化の影響で、梅3:桜1の比率だったのですが、その後、平安時代から明治時代までは、梅:桜≒1:1でほぼ同様に詠われています。

♫梅は咲いたか、桜はまだかいな、チョイナチョイナ♪です。

ところが、大正時代以降は、ご存知のソメイヨシノという優れた品種が開発されて、一気に桜が優勢になってきました。現代では、イメージとして、梅:桜≒1:4くらいでしょうか?

 

花見は数千キロの距離を通って西アジアから極東の日本へと伝わり、1300年の時の流れの中で形を変えながら続いている風習です。今の西アジアの地域で、花見がどんなに行われているかは知らないのですが、多くの大陸アジアの風習や文化が日本に伝わり、豊かに醸成されていきます。

また、元号という文化もそうなんですが、大陸アジアでは廃れてしまった、忘れ去られた文化も日本には残っています。そして、再び日本から世界へと再発信されていきます。

令和の時代にあっては、世界が平和に美しいお花見ができるように願いたいものです。