ヤクルトと宇部市の縁を知っていますか?

ある方から、ヤクルトは山口県と深い縁があると教えてもらいました。知っていますか?

 

ヤクルトといって最初に頭に浮かぶのは、あの独特な容器の形です。現在では、コカ・コーラの瓶の形状などと同様に立体商標として保護されています。私たちが小学1年のときに、プラスチック容器として世に出て、まさに一世を風靡しました。男の子の夏休みの工作では、半分くらいが使用済みヤクルト容器でつくった怪獣?だったような気がします。

 

ヤクルトの歴史
ヤクルトの歴史(ヤクルト本社のWebサイトから)

以下、ヤクルト本社のWebサイトなどから抜き書きします。

 

明治32年に、長野県の医師の息子として生まれた代田稔は、京都大学医学部に学び、そのまま助手となります。大正14年。

当時の日本は衛生状態が悪くて感染症で命を落とす子供たちが数多くいました。

代田は病気にかかってから治療するのではなく、病気にかからないようにする「予防医学」を志して、微生物研究の道に入ります。

研究は、酸に強くて腸まで届く「乳酸菌 シロタ株(ラクトバチルス カゼイ シロタ株)」という非常に優れた乳酸菌の発見に結びつきます。昭和5年のことです。

 

ヤクルト発祥の地
ヤクルト発祥の地(西スポのWebサイトから)

この頃、北九州市若松出身の永松昇がヨーグルトを使った健康によい食品を販売しようと考えていました。

京都大学を訪問して代田の優れた乳酸菌のことを知った永松は、福岡市に「代田保護菌研究所」を設立して「ヤクルト」の販売がはじまります。昭和10年のことです。福岡市中央区唐人町のヤフオクドームの近くに「ヤクルト発祥の地」というモニュメントがあります。

 

代田はその後徴兵されて満州に行きます。昭和14年に復員すると、ヤクルトの瓶詰工場が下関市安岡にあったことから、下関市に「代田研究所」を設立して研究に取り組みます。

同じ昭和14年に、永松はヤクルトの販売部門を分離独立させて宇部市に本社を置き「代田保護菌普及会」を設立させます。宇部を拠点にして、ヤクルトは九州・中国地方から西日本に広がります。

しかし、太平洋戦争に突入し、昭和17年頃には乳酸菌の製造が困難になり、事実上事業を停止せざる得なくなります。

 

戦争が終わって、代田と永松は旧ヤクルトの従業員を再び集めて、昭和26年の大牟田工場の稼働に結びつけます。昭和30年に東京西八丁堀に株式会社ヤクルト本社が設立されて、その後は全国に、さらに世界へとヤクルトは発展していきます。

 

カープファンとしては、セ・リーグの他球団はライバルなんですが、横浜DeNAとともに、ヤクルトも山口県に縁があると、シーズン開幕直前に知って驚きました。まぁ、優勝は譲れませんが、この3チームでAクラスといきましょう。