ちょっと必要があってエネルギー白書2018を参照していたのですが、今年の第1章は「明治維新後のエネルギーをめぐる我が国の歴史」という特集記事です。
この第1節は明治維新の1868年~を取り上げているのですが、その1が「照明から始まったガス利用」として、明治5年(1872年)に横浜の馬車道にガス灯が点灯したことを紹介するところから始まっています。
この明治5年に、日本最初のガス会社を横浜桜木町の興したのが、高島嘉右衛門です。その面白すぎる人生の一端をご紹介しましょう。
嘉右衛門は1832年(天保3年)に江戸の材木問屋の第六子として生まれます。ところが、兄たちが次々に夭折し、父も早逝したことから、20歳で家業を継ぐことになります。
嘉右衛門は幼少の頃から将来を予言する不思議な力を持っていました。1855年に安政江戸地震の後の大火で江戸の町は焼失するのですが、嘉右衛門にはこのことがわかっていました。そこで、予め材木を調達していたことで、2万両という大きな利益を上げました。
その後の紆余曲折は置いといて、嘉右衛門は横浜港開港の頃から、横浜で陶器など外国人相手の取引をおこなうようになります。そのとき、外国人が買うときは銀貨、売りときは金貨(小判)を使いたがることに気付きます。当時の金の値段が小判の価値より高かったのです。
嘉右衛門はこれに目をつけて、小判を買い集めて銀貨に替えて利益を得るという取引をおこない巨利を得ます。しかし、これは幕府の禁法であったので1859年から7年間を牢で過ごすことになります。この入獄の間に、嘉右衛門は将来を予言できる能力に磨きを掛けます。
1865年(慶応元年)に赦免された嘉右衛門は、横浜で材木商を再開したうえ、外国人相手の大旅館を経営するなどして大いに繁栄します。この頃から嘉右衛門の不思議な能力は、多くの人の知るところとなり、木戸孝允や伊藤博文など明治維新の政府要人の多くが嘉右衛門に相談に来るようになりました。
嘉右衛門はその人脈を活かして、日本最初のガス会社を横浜に興した後、渋沢栄一とともに東京でもガス事業を興します。新橋横浜間の鉄道敷設に尽力し、東京と北海道を結ぶ定期航路を開設し、高島学校をつくります。
嘉右衛門は1876年(明治9年)に実業の世界から離れて、1914年(大正3年)に亡くなるまでの40年近くは表舞台には出てきません。しかし、この間に嘉右衛門の隠居所を訪れた要人は数知れないようです。明治維新から日清日露戦争を経て大正へと向かう時代の、明治政府の意思決定に陰で大きな影響を与えたものだと言われます。高島嘉右衛門は、その類まれな将来の見立てから易聖と言われ、高島易断と呼ばれました。
ちなみに、高島易断は商標登録されていないで、現在複数存在する高島易断と名乗る組織はいずれも嘉右衛門とは関係がありません。ご用心。