山川健次郎。安倍首相の施政方針演説

今朝の新聞に昨日の安倍首相の施政方針演説が掲載されていましたが、その冒頭です。

 

九州工大の創立者の胸像
九州工大の創立者の胸像

「150年前、明治という時代が始まったその瞬間を、山川健次郎は、政府軍と戦う白虎隊の一員として、迎えました。」というのが、施政方針演説の冒頭の言葉です。

 

薩長土肥を中心とする新政府軍と、旧幕府軍が戦った会津戦争は、明治元年9月22日(明治に改元されたのは9月8日ですから14日後)に会津藩が降伏して終焉を迎えていきます。12歳の山川健次郎は、そのとき会津若松城に籠城していた白虎隊の一員でした。

 

賊軍だった山川ですが、その才能を見出されてアメリカ留学を果たし、東京大学の初めての日本人物理学教授となります。

その後、一貫して「国の力は、人に在り」と貧しい家庭の若者や女性の教育に力を注ぎました。山川は東京大学・京都大学・九州大学という3つの帝国大学の総長を務めたことで知られています。

 

安倍首相は官軍の長州出身です。実は150年経った今でも、山口県と福島県の間には微妙な空気が流れています。教育改革や人づくり革命がテーマの国会の施政方針演説の冒頭で、敢えて山川健次郎を語ったのも意味があります。

 

その山川の教育理念に共鳴したのが、九州で炭鉱経営に成功して安川財閥を創設した安川敬一郎とその次男の松本健次郎の親子です。安川財閥は、現在の安川電機や黒崎播磨につながります。

 

安川・松本親子は「国家によって得た利益は国家のために使うべきである」と、明治42年に私財を投じて明治専門学校を開校します。開校にあたり、全ての教育を山川健次郎に託すこととして初代総裁として招きました。その時の山川の指導精神が「技術に堪能なる士君子」を養成するということでした。この士君子はgentlemanの意味で、技術だけでなく人格も兼ね備える人つくりを目指したわけです。

明治専門学校は大正10年に官立移管されて、現在の九州工業大学となりました。

 

九工大の正門を入ってすぐにある創立関係者の胸像は、山川・安川・松本と、校長を務めた的場中(まとば なか)の4人です。的場は、明治日本を代表する鉱山学者です。