枡の大きさを誤魔化して増税していた

昔は税金を年貢としてお米で徴収していました。お米の量を量るのが枡です。

 

江戸の公定枡
江戸の公定枡

昔は年貢米の量を量るのに枡を使っていたのですが、これは容積です。今はお米の量は重量で量りますから、そもそもスタートが違いますが、枡は計量の基準になりますから古来から重要なものでした。

 

最初に枡の基準を決めたのは、701年の大宝律令でした。中国から輸入して導入された枡では、1升は現在の0.4升くらいでかなり少なかったのです。

 

その後、徴税する側としては、たくさんの年貢米を取り立てたいと思いますから、ズルするために枡の大きさを少しづつ大きくするようなことがおこなわれました。

律令制が崩壊すると各地の荘園などで勝手に大きな桝が使われるのになったので、1071年に後三条天皇が宣旨を出して公定枡を決めます。このときは現在の0.7升くらいになりました。

ただ、これも長くは続かず、南北朝から安土桃山時代に掛けて各地でいろいろな桝が使われるようになっていきます。と言うか、どんどん桝が大きくなっていきました。酷いところでは、現在の3升分を1升と言い張るような無茶なことがおこりました。

 

これを統一したのが、豊臣秀吉であることは有名です。太閤検地をおこなって、全国の桝を統一しました。京都近郊で使われていた桝の大きさを基準にしたので「京桝」と呼ばれます。

長さ5寸の正方形で深さが2寸5分という、とてもわかりやすい大きさです。これは、現在の1升より少し小さくて0.97升分に相当します。

 

それでは現在の1升(1800cc)になるのは、江戸時代に入って寛文年間のことです。太閤殿下から徳川幕府へと権威が移って、その威光は強かったのですが各地の大名の中には、やっぱり桝を大きくするところが出てきました。

徳川幕府が寛文年間に全国で実際に使われていた桝を調べて、新たに公定桝を決定して、東西の桝座で管理させることになったのです。これが、長さ4寸9分 で深さが2寸7分の桝でした。これ以降、1升は1800ccの容積になり、明治に至るまで変更されませんでした。

 

写真は江戸時代の公定桝で、内外に西町奉行所の印が押されています。内側にも押印されているのは、逆に内側に板を貼り合わせて容量を少なくするような不正もあったからです。