加藤八千代は、カネミ油症事件当時のカネミ倉庫の非常勤取締役です。
1938年(昭和13年)に、加藤平太郎が小倉市(今の北九州市小倉北区)で九州精米株式会社を創業します。1958年(昭和33年)に東邦倉庫と合併して、社名をカネミ倉庫に変えます。
1968年(昭和43年)に、カネミ倉庫は「カネミ油症事件」を起こすのですが、当時の社長は加藤平太郎の子である加藤三之輔で、姉の加藤八千代は非常勤の取締役でした。
カネミ倉庫は、米糠からとった粗製油を原料にして食用ライスオイルを製造しています。この粗製油を脱臭するために加熱します。この加熱に蛇管に高温にしたPCBを熱媒体として循環させた脱臭缶を使用していました。
1968年1月末から2月にかけて、カネミ倉庫の脱臭缶ではPCBが異常に減少したのですが、PCBの性質について知識のなかった従業員は深く考えもしないで、PCBを補充していました。結果として、ライスオイルに混入したPCBの量は280㎏に及びました。
尚、PCBが漏れた原因は吸収缶の温度計をメンテナンスしたときに誤って蛇管に穴を開けていたことだと後に判明します。
1968年3月から福岡県内の養鶏場で、鶏の呼吸困難などの奇病が発生します。
そして、6月には西日本一帯で子供を中心に吹き出物や内臓疾患など油症患者が出始めます。さらには油を摂取した母親から生まれた子供に皮膚に色素が沈着した「黒い赤ちゃん」が生まれるようになりました。最終的には、被害者1万4千人という日本史上最大の食品公害事件となりました。
1968年11月には、福岡県と九州大学の調査で油症の原因がライスオイルに混入したPCBであることが判明します。
しかし、当時のカネミ倉庫はことの重大性を認識できておらず、PCB混入がわかってドラム缶に回収していたライスオイル500ℓを正常油に少しづつ混ぜて販売することをしています。
カネミ倉庫は、社員やその家族、出入り業者などと口裏合わせをして事件の隠ぺいや矮小化を図ろうとしました。
加藤八千代は、事故の深刻さや被害の大きさに衝撃を受けて内部調査をおこないます。その後、カネミ倉庫の取締役を辞任して、事件の真相に迫るような情報を数多く公開しました。
最も経営に近い人物の内部調査であり、内部告発でした。彼女の存在がなければカネミ油症事件の詳細やPCBの問題は明らかにならなかったと思われます。
当時も今も、このような未知の化学物質による事件が起こった場合の調査体制は十分に確立できていません。
第三者機関による調査がおこなわれる場合には、大学の薬学部とかに依頼することになりますが、もちろん本来の研究や教育の仕事があります。事件の調査を最優先にするわけにもいきません。後になれば何とも言えるのですが、多くの場合は事件の最初は影響の大きさもわかっていない霧のなかでの調査です。
今の私たちは、カネミ油症事件からは、多くの教訓を得ることができます。
しかし、カネミ油症事件は風化しています。先日のブログに書いたPCB処分問題で「カネミ油症」という単語は出てくるのですが、若い技術者では、油症事件の存在そのものを知らない人もたくさんいます。
この事件は、技術的な課題だけでなく、経営者の倫理や社会的責任という側面でも多くの教訓を残しました。技術者は知っておくべきです。