岩国市の錦川に架かる錦帯橋は「日本三名橋」の一つで、美しいのですが渡り難い橋です。
今日は、岩国市でセミナーがあって帰りに錦帯橋に立ち寄りました。
中国地方の太守であった毛利家は
毛利元就の孫にあたる毛利輝元が関ケ原の戦いで西軍に与したことから、防長二国に減封されました。
毛利元就の二男:吉川元春の子である吉川広家は、出雲富田12万石から、周防岩国3万石に移ります。
城下町岩国は吉川広家によってつくられました。錦川を天然の外堀として横山の山頂に築いた岩国城を守る配置です。
このため、最初の頃は錦川には橋を架けることはなかったのですが、江戸時代になって太平の世になると、城との往来に橋が無いのは不便です。
そこで、何度か橋を架けてはみますが、川幅200mと広いにもかかわらず、急流になりやすい錦川では、せっかく架けた橋が度々流されます。
岩国藩では流れない橋の研究を徹底的に行って、中国の浙江省杭州にある西湖にかかるアーチ橋に学んで、世界にも類のない五連の橋を築くことになりました。
その後もいくつもの改善を加えて、1764年に現在の錦帯橋と同じ形式で完成します。この橋は昭和25年の台風で流されるまで276年に渡って流失することはありませんでした。ちなみに、これは第二次大戦の燃料不足で錦川上流の山林で乱伐があって、大量の木材が流れたために橋が耐えられなかったそうです。
錦帯橋は本当に美しい橋です。また、決して流されないという機能面でも卓越した橋です。
ただし、とても渡り難い橋です。歩いてみれば、結構急なアーチになっていて、お年寄りにはちょっときついです。