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このところ、毛利家に関する本や小説をよく読んでいます。

 

毛利氏は安芸の国(今の広島県西部)の吉田という地区の国人領主でした。

毛利元就(1497年~1571年)という傑出した人物が、登場して一気に戦国大名として領地を拡大して、最盛期には中国地方十か国に北部九州から四国の一部に広げました。

その後、豊臣秀吉の天下統一に参加したかたちになり、関ケ原の戦いで徳川家康に敗れて、防長二か国に減封されたまま江戸時代を経過して明治維新の原動力になります。

 

毛利両川という言葉があります。戦国時代の毛利氏は元就が次男と三男を養子に入れた、西の吉川氏、東の小早川氏という二つの”川”の字が入った有力家系を取り込んだ政治体制のことです。三本の矢の訓えでも有名なこの戦略が功を奏して毛利氏の勢力は拡大しました。

関ケ原の戦いでは、この両川体制が崩れて、毛利輝元が西軍の大将にも関わらず、吉川広家が東軍に最初から加担し、小早川秀秋が途中で寝返りました。これが、東軍の勝利につながりました。

 

さて、足利将軍家で15代続いた室町(京都)幕府は1573年に織田信長によって滅ぼされたことになっています。但し、これは勝った側の歴史であって、現役の将軍である足利義昭の側から見ると話は違って、足利幕府は1587年まで続いています。

 

織田信長によって京都を追い出された義昭は、河内や紀州を転々とした後に、毛利氏を頼って福山の鞆に幕府を開きます。1576年2月のことです。義昭将軍は毛利氏をスポンサーにして足利幕府再興することを願い、元就亡き後の毛利両川は足利幕府の権威を利用して織田信長に対抗して中国地方から西の勢力を固めたいと考えていました。

 

 

 

織田信長が本能寺で亡くなり、その後を継いだ豊臣秀吉に毛利氏が臣従するのは1583年のことです。その後、1587年に最後の将軍:足利義昭も秀吉に従って京都に戻ります。ここに、鞆幕府はうたかたの夢となり、足利幕府は終焉を迎えました。