榎本武揚:「シベリア日記」シベリア横断して帰任

駐ロシア全権公使:榎本武揚はロシアの首都サンクトペテルブルグから東京に帰任します。

 

昨日の続きです。

☞ 2016/12/08 榎本武揚:北方領土問題を解決した男の「シベリア日記」

 

榎本武揚は、明治11年7月26日7時15分発の汽車で(4年駐在した)ペテルブルグを出発します。使用人たちに合わせて260ルーブル(今の日本の価値にすると150万円くらい)の祝儀を与えたと書いています。旅立ちの汽車はロシア交通大臣のはからいでエキストラ-ワゴン(特別車)が提供されました。榎本に随行するのは、公使館二等書記官の市川・従者の大岡・留学生の寺見の三人です。

 

7月27日朝10時にモスクワ駅に到着。翌28日夜8時に汽車に乗るまで、モスクワ市内のクレムリン(内城)やエルミタージュ公園などを見学しています。日記の書き方からすると、初めての訪問だったようです。7月29日朝9時半にニージニー-ノヴゴルド駅に到着して、早くも鉄道の旅は終わりです。

 

7月30日の朝、サモレット号という外輪船に乗ってヴォルガ川を下ります。この日の日記も極めて詳細で、川の地形(川幅や右岸左岸の高低差や植生、地質など)から、サモレット号の諸元に至るまで詳しく書いています。この船旅は8月3日まで続きます。

 

8月3日朝にベルミに上陸した一行は2台の馬車を購入します。馭者を雇って、いよいよシベリア横断の旅がはじまります。立派な馬車だったようですが、何せシベリア横断ですから、この馬車のなかで宿泊もするのです。8月ですが馬車旅の最初はウラル山脈越えで、気温も10℃に足りません。現代から考えると過酷な旅といえます。榎本たちは毒虫にたたられながらも、馬車の旅を続けます。食事は、通過する村でパンを買い求めたり、鶏を買って締めたりしています。

 

8月28日夕方に、馬車はバイカル湖のほとりイルクーツク市に到着します。日記にはイルクーツク市の市政、経済、軍事、庶民生活、物価から地理・地質まで詳細に記録されています。榎本から愚鈍無識と書かれた現地の長官より、一日にして当地に関する多くの知識を得たかのようです。

 

8月30日には、週に一度の定期船に乗り込んでバイカル湖を横断します。馬車も船に載せて運びます。馬は、対岸で改めて借りるのです。再び馬車の旅です。モンゴル・中国国境沿いに進み、9月11日の夕刻にスターチェンスク村に到着します。

 

そして、9月13日には郵便船に乗り込んで、ウラジオストックまでアムール川を下る旅がはじまります。船は日のある間は航行して、夜になると停泊します。ときには小さな村で昼間に停泊して、上陸することもできます。榎本は上陸した村のことはもちろんですが、通過した村のことも詳細に記録を残しています。いよいよ9月29日午後5時半にウラジオストックに到着して榎本の「シベリア日記」は終わります。

 

その後は、10月2日に明治政府が用意した汽船函館丸でウラジオストックを出て、4日夜に小樽港に到着します。その後、札幌や函館に滞在した後、10月19日に函館を出港して21日夜に東京へ戻りました。7月26日にサンクトペテルブルグを出てから87日目に当たります。気の遠くなるような旅をして、榎本武揚は東京に帰任しました。