榎本武揚:北方領土問題を解決した男の「シベリア日記」

榎本武揚は幕府軍を率いて戊辰戦争で函館五稜郭に拠って戦ったことで知られています。

 

幕府軍が敗れると、榎本武揚は官軍によって投獄されるのですが、有能な人材であることは明らかです。人材を求めている明治政府は、僅か2年半を経ただけの明治5年に榎本を特赦で放免して北海道開拓使として任官させます。

さらに、明治7年には、ほんの数年前には敵であった榎本を、北方領土問題が激しくなっていたロシア帝国の首都サンクトペテルブルグに日本政府の全権大使として赴任させます。

 

この時点での北方領土の状況は、いわゆる北方四島(択捉・国後・歯舞・色丹)は日本が領有していて、これより北の千島列島はロシアが領有していました。一方で、樺太(サハリン)は日本とロシアの両方の人が混ざって住んでいて統治権が確立されていませんでした。

つまり樺太を日本とロシアのどちらが統治するのかというのが問題でした。

 

榎本はロシアに赴任して北方領土問題の解決に尽力します。そして、翌明治8年に日本とロシアは「千島・樺太交換条約」が締結されます。この結果、千島列島は全て日本領、樺太は全てロシア領とすることが確定しました。

つまり、領有を争っていた樺太をロシアに譲る代わりに千島列島を得たということです。

 

その後、ロシアとトルコの間で「露土戦争」が勃発して、榎本のロシア滞在は長引くことになります。榎本以外にロシアの考え方や情勢を正確に伝えられる人物がいませんでした。

「露土戦争」が終結して榎本がサンクトペテルブルグを離れるのは、明治11年7月26日のことです。シベリア大陸を陸路横断して9月29日にウラジオストックに到着するまでの間に書いた「シベリア日記」が大正12年になって自宅から発見されています。

 

とても詳細な内容で、誰が読んでも興味深い内容です。当時のロシアの風物やモノの値段なども詳しく書かれています。第一級の歴史資料であるだけでなく、榎本の人となりもよくわかります。

 

ちょうど、来週はロシアのプーチン大統領が山口県を訪れます。安倍首相との会談では、北方領土問題に何かの進展があるかもしれないと期待されています。また、対ロシア経済協力の一環として、シベリア鉄道の北海道延伸といった話題も出ています。

またこの日記にはいわゆる旅費精算の記録もついています。政治家(首長)や官僚の出張が豪華すぎるという話題もありますので、これも含めて少し紹介してみます。

 

この続きは明日・・