西鶴 算を知らねば損をする

西鶴の時代は貨幣経済が発達してきた時代です。お金の計算ができないと損します。

 

貨幣経済が発達する以前は、計算=算数や数学は庶民にはあまり重要な能力ではありませんでした。公家など上流階級の教養=たしなみといった位置付けです。

 

江戸時代以前は、計算をするのに算木を使っていました。小学校の算数セットにある棒のようなものです。算木は、吉凶を占う際に使われるものですから、数学は呪術やまじないの道具でもありました。当時の算師=数学者は特別な能力を持った博士だったのです。

 

ところが、江戸時代に入ると士農工商全ての人々に数学的な能力が必要になってきます。

西鶴の時代以降は、現在に至るまで「算を知らねば損をする」時代が続いています。西鶴の時代には「そろばん師」という、計算をする専門職もありました。

その後は、加減乗除の計算能力を、一般庶民も身に着けるようになっていきます。 

 

塵劫記
塵劫記

さて、日本人の数学能力を飛躍的に高めた功労者は吉田光由です。

1598年に生まれて1672年に亡くなっています。吉田光由が1627年に書いた数学の初等教科書である「塵劫記」は、日本中で読まれ使われました。

 

数学の教科書が人気になるというのは不思議ですが、この「塵劫記」には多くの工夫がありました。九九の覚え方とか、そろばんの使い方とか、を丁寧に教える一方で、クイズやパズルのような問題を取り揃えました。

商品の売買、利息の計算、土地の面積、山の高さなど、身近な題材を問題にしています。さらに、ネズミ算とか継子算(遺産相続の計算)とかのパズル的な課題も与えています。 

 

 

「塵劫記」は何度も続編が出版されているのですが、付録として解答を載せない問題を出しました。これが、当時の人の挑戦意欲を掻き立てて、数学の難問に取り組む風習をつくったようです。

日本の古い神社には、和算額と言われる数学の難問を奉納した額が掛かっています。さぁ、解いてみろ!というわけですが、世界中で日本だけの風習です。

 

井原西鶴と同い年の関孝和は、「塵劫記」を懸命に独習した後、1674年に33歳で「発微算法」を出版します。ここに、日本における高等数学の第一歩が記されました。