短編小説家:井原西鶴はいくら儲けたのか

井原西鶴が俳諧師から浮世草子に転向して作家生活を送ったのは約10年間です。

 

年齢で言えば、41歳から50歳くらいの間です。作品は、日本永代蔵と同様に、すべてが短編小説集です。

 

「好色一代男」「好色二 代男」「好色五人女」「好色一代女」「男色大鑑」などの好色物、「武家義理物語」「武道伝来記」などの武家物、「日本永代 蔵」「世間胸算用」などの町人物、「西鶴諸国はなし」「懐硯」などの奇談物 、変わったところで「本朝櫻陰比事」という裁判物。亡くなった後にも、「西鶴置土産」「西鶴織留」「西鶴俗つ れづれ」「萬の文反古」「西鶴名残の友」と5つの遺稿集が出版されています。

 

ざっと、25の短編集を10年間で書いたことになります。

 

赤川次郎さんは作家生活40年で580作品を出版していて、日本で最も多作な作家として知られています。3週間に1作品のペースで書き続けているわけですね。

井原西鶴のペースは、赤川次郎さんには及びもつきませんが、ワープロもなくて木版画で出版をしていた江戸時代前期としては、驚異的に多作な作家でした。

 

 

さて、その西鶴の短編集のお値段です。

「日本永代蔵」は銀三匁(もんめ)という値段で販売されています。

 

当時の日本には、金・銀・銭の三貨がありました。金貨と銀貨が主要貨幣で、銭は補助貨幣です。江戸以前は銀貨が主流で、西鶴の時代もまだ銀貨のほうが優勢でした。銀貨は、今のお金と違って秤量貨幣といって、重さを量って流通していました。

金貨は小判のように、幕府や藩の信用で流通するので、今のお金と似ています。幕府は、金貨のほうをたくさん流通させたかったのですが、まだ当時は信用が不足していました。

 

元禄13年(1700年)の公式な交換レートは、金1両が銀60匁です。金1両を10万円と置くのが、一般的にわかりやすいです。幕府や大名、上級武士、大商人の暮らしの中ででてくる金貨の場合は、この換算で実感が湧きます。

しかし、当時は今では想像もできないような格差社会です。裏長屋で暮らす職人や、田舎暮らしの農民が1両小判をみることは一生に一度もないのが実態です。庶民の生活で出てくる場合は、金1両を30万円くらいで置き換えるとしっくりします。

 

さて、「日本永代蔵」は今の値段で言えば、5千円から1万5千円という値段です。木版で刷られる手間など考えれば、激安価格の気がします。一方で、文庫本が千円以下で買えることを思えば、すごく高いとも思います。

当時の庶民にとっては、気楽に買える金額ではなかったので、貸本で読んでいました。江戸時代は貸本屋さんが大繁盛していたのです。

 

「日本永代蔵」は西鶴の本のなかでも短いので、最も安価な値段設定です。「好色一代男」などで銀8匁で、だいたいは銀5匁(今の価値では8千円から2万5千円)でした。

出版部数がいくらくらいだったのかは、はっきりしないのですが、木版印刷ですから最大でも千部から数千部といったところでしょう。

仮に計算して、2000部×2万円×25作品=10億円ということになります。

当時の出版社と作家の取り分が判りませんが、まずまずの収入はあったようですね。