西鶴のころ、江戸時代の出版事情

日本の出版業は、慶長13(1608)年に京都ではじまった。

 

1608年に、京都の角倉素庵という商人が、「伊勢物語」「源氏小鏡」「観世流謡本」「徒然草」「方丈記」などを出版したのが日本の出版業のはじめです。

徳川政権が安定していくとともに、出版業は盛んになっていきます。1630年頃には出版社が100社を超え、西鶴が活躍しているころ(1680年代)には年間に6000の新刊が出版されていたようです。もちろん、最大のベストセラー作家が井原西鶴です。

 

印刷には紙が必要です。戦国時代までも、日本では最高級の紙を生産することはできましたが、非常に高価で普通に使えるものではありませんでした。江戸時代に入って、国が落ち着くと、各藩が農民の農閑期の仕事として紙漉きを奨励したので、大量の紙が生産されるようになりました。製紙の技術は、生産地間の競争が激しくなったことから、飛躍的に向上します。

良質で安価な紙が、日本中で大量に生産されるようになります。

 

 

浮世絵は木版多色刷りの印刷物で、バレンで何度も擦るのですから、とても良質な紙が使われました。大手の商店の経理書類(大福帳)も、長期間保管するものですから、浮世絵並みの良質紙を使っています。このため、300年経った今でも、歴史資料として活用できます。

 

一方で、江戸時代の早い時期から紙のリサイクルも始まっています。漉き返し紙といわれるもので、トイレットペーパー(落とし紙)に使われたり、漫画や雑誌(黄表紙)になったりしました。

 

江戸の前期は出版業の中心は上方(京都や大阪)ですが、1700年代に入ると江戸(東京)にその中心が移ってきます。この時期になると、武士階級向けの教養書や子弟向けの教科書の出版が増えていきます。

武士階級に一巡すると、寺子屋が各地に出来て、商人や職人や農民の子どもたち向けの教科書が出版されます。女子向けの教科書も出版されています。当時は、標準語が無くて、地方の方言がきつく、階級毎の言葉使いが異なる時代でしたから、教科書の文字を統一することが必要だったようです。

 

江戸時代というのは、日本の歴史上で稀な教育熱心な時代でした。幕末の日本人の教育水準の高さに、欧米人が驚愕したエピソードは数多く知られています。政治的な安定が、教育には欠かせないということですね。

 

最後に、江戸時代を通じて、印刷は木版でした。江戸の初めの一時期は、活版印刷もおこなわれたのですが、漢字や挿絵を入れるのは不便だったことから、木版に戻っていきました。この江戸の初めの活字というのは、豊臣秀吉の朝鮮出兵のときに、朝鮮からどさくさ紛れに持ち帰った(奪った)10万の活字を使っていたということです。申し訳なく思っています。