サンフランシスコ大地震から発展したバンクオブアメリカ

バンクオブアメリカ(バンカメ)は世界最大の金融機関の一つです。

 

昨年末時点で、総資産2.1兆ドル(250兆円)、預金合計1.2兆ドル(140兆円)という規模です。 

 

ルイジ・ジアニーニは、イタリア・ジェノバの農民でしたが、1864年に金鉱探しのために渡米して来ました。その後、サンフランシスコ近郊で農場の経営をはじめていました。

 

後にバンクオブアメリカを創設するA.P.ジアニーニは、1870年にこの農場でルイジの息子として生れました。

 

父親のルイジが不幸な事件で亡くなった(使用人に射殺された)後、母親は野菜の仲買いを仕事にしているロレンゾ・スカテーナと再婚します。

A.P.ジアニーニは、小学生の頃からスカテーナ商会の仕事を手伝い、抜群の商才を発揮します。16歳の頃には、1日18時間働いて会社のあらゆる仕事に関わるようになりました。ロレンゾは、19歳のA.P.ジアニーニに会社の1/3を与え、21歳になったときには持分を1/2に引き上げました。

 

A.P.ジアニーニは、スカテーナ商会をサンフランシスコ最大の仲買商に仕立て上げたのですが、だんだん興味を失ってきて27歳のときに退職します。

その後不動産業を始めても成功し、29歳のときにコロンブス貯蓄貸付組合という名前の、イタリア系移民相手に貸し出しをする地方銀行の役員になって金融業に関わります。

 

A.P.ジアニーニは、1904年(34歳のとき)に自分の銀行をつくろうと決意して、サンフランシスコにバンクオブイタリーという銀行を立ち上げます。ジアニーニを信頼するイタリア系実業家から、30万ドルの資金が集まりました。30万ドルは今の価値では1000万ドル≒10億円くらいです。

 

バンクオブイタリ―は、貧しい移民相手の小口の取引を開拓していきます。当時、英語の読み書きができない移民たちは、銀行との取引ができずに働いた金を現金で持っていました。

ジアニーニはイタリア語をはじめとして英語以外の言語を使えるスタッフを雇って、戸別訪問を徹底して少額の預金を集めて回りました。

また、ほかの銀行ではやらない小口(今の価値では10万円以下)の個人ローンにも取り組んで顧客をどんどん獲得していきました。

 

A.P.ジアニーニが銀行をはじめてから僅か1年半後の1906年4月18日に、サンフランシスコ大地震が発生します。

全ての金融機関が営業を停止しましたが、ジアニーニのバンクオブイタリ―は、地震の翌日から波止場に酒樽に板を渡しただけの机で通常営業を再開しました。そして、被災した中小企業者や個人事業主に対して、地震からの再建資金を積極的に貸し付けたのです。

 

震災の後ですから、厳密な融資審査はできません。このときの、ジアニーニの貸し付け条件は「手にたこがあること」だけでした。

手にできたたこを、「働く意思と返済する意思の証拠」と考えたのです。

 

この大胆な行動は実を結びます。後にA.P.ジアニーニは、震災の後の融資で「1ドルの損失もでなかった」うえに「多くの友人を得た」と言っています。

実際に、このとき手のたこを担保に少額の金を借りたうちの何人かが、大成功して財産を築きバンクオブイタリ―の優良顧客になりました。

 

バンクオブイタリーは、その後も成長を続けて1929年にバンクオブアメリカ(ロスアンジェルス)を買収して、バンクオブアメリカとなります。

A.P.ジアニーニは1949年に78歳で亡くなるまでバンクオブアメリカの会長として、1日18時間働き続けたそうです。 

 

【余談ですが・・】

サンフランシスコ大地震はM7.8の断層型大地震です。地震の後に大火災が発生したとこもあって、当時の人口40万人のサンフランシスコ市で3000人が死亡して、23万人が家を失いました。

略奪が横行して、サンフランシスコ市のシュミッツ市長が「略奪者はその場で射殺せよ」という命令を出したエピソードは有名です。今回の北野たけしさんの発言の下敷きです。尚、「射殺せよ」命令が効いたのか、略奪者は減って実際に射殺された人は出ませんでした。