日曜連載は、井原西鶴の「日本永代蔵:現代版アレンジ」です。第三回。
社長と言っても、年収が何十億円にもなる大社長もいれば、数百万円の社長もいる。
大阪の唐金商会は食料品専門商社だが、自社で神通丸という商船を所有するなど、商売に工夫があるので業績が好調だ。この唐金商会を筆頭にして、大阪には食料品専門商社がたくさん集まっている。街は活気にあふれて、大社長ばかりで、たいそう羽振りがよいようだ。
そんな成功した社長の多くも、最初は田舎から出てきた若者たちで、苦労してのし上がってきたのだ。もちろん、うまくいかずに傷心のまま帰郷したり、しがない雇い人で生活したりしているものも多い。
なかには、一旦は儲かっても、調子に乗って不正に手を染め、折角大きくした会社をしくじった社長もいる。跡を継いだ二代目の放漫経営で傾いた会社も多い。
そのなかで一風変わった会社がある。
≪ここからはちょっと江戸時代に戻ります≫
米俵のなかの品質を確認するために、細い竹筒の先を尖らせて俵に突き刺して、少量の米をサンプリングする。そのせいで、大八車に米俵を載せて運ぶときにサンプリング孔からほんの少しだが米粒がこぼれる。
女は、若くして夫を亡くして幼い男子を抱え、その日の暮らしにも困っていた。そこで、大八車の後ろを小さな箒と団扇を持って付いて歩き、僅かばかりの米粒を集めて回っていた。
あんまり汚らしい女だったので、誰もとがめだてはせず、見て見ぬふりをした。女は息子が学校に上がる年になると、この乞食仕事を教えて、二人でせっせと米粒を集めた。
その頃、大阪の港はどんどん繁盛していったので、米俵を運ぶ大八車も増えていった。集める米粒も馬鹿にならない量になってきた。女は集めた米を少しずつ金に換えては貯えた。
大人になった息子は、その金を元手に少額の金貸しをはじめた。
大阪には、田舎から成功を夢見た若者たちがまだまだいくらでも押し寄せた。息子は見込みのある若者たちに低利で金を貸し付けた。
人を観る目が確かな息子の、小さな金貸し業は10年も経つころには一流の金融会社に成長した。
20年も経った今では、大社長になっている息子と、会長職に納まっている老婆の昔を噂するものは誰もいない。会長室の神棚に、小さな箒と団扇が祀ってあることも、もちろん誰も知らない。